2012年03月12日

3月神戸での震災の経験の中で、情報発信と復興ために力となる仕事つくり

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ゲスト:山口一史さん NPO法人ひょうご・まち・くらし研究所常任理事


■社屋が崩壊、新聞発行も危ぶまれた
神戸新聞では、長い間、経済記者をしていました。阪神・淡路大震災の時も神戸新聞にいました。社屋がつぶれてしまい、新聞が発行できるかどうかの瀬戸際でした。京都新聞と業務協定を結んでいたおかげで、新聞を届けることができました。まさか神戸新聞が助けてもらうことになるなんて、夢にも思わなかったです。

■ひょうごまち・くらし研究所
2003年にでき、2004年1月にNPO法人として認証を受けた団体です。
「大きな災害のときに人々のくらしをどう復興していくか?」というテーマをもとに活動をしています。「災害で人々がどう乗り越えてきたか」を分析して、次の災害の時に提案をしていきます。また、障害者の作業所の運営についても支援をしています。

■まちづくりへの関心
もともと私は、“村おこし”や“まちおこし”など地域全体で協力をして何かをつくっていくことに興味がありました。震災があり、“まちづくり”への関心になりました。社会の声も、震災を機に大きくなったと思います。
阪神・淡路大震災の時、全国からたくさんのボランティアが来ました。メディアの人間として、彼らと接していて、「なんで給料もほとんどないのに、この人たちはニコニコしているんだろう?」と羨ましく思っていました。

■便利さに依存しすぎている
阪神・淡路大震災の時、神戸新聞も生活情報をたくさん流しました。電話の状態も悪く、インターネットもないので、読者からの情報を裏もとらずに記事にしましたが、間違った情報は1つもありませんでした。17年が経ち、通信手段は便利になりました。しかし、それに頼りすぎている部分があるかもしれません。

■石巻日日新聞
壁新聞を読んでいると、毎日の復興・復旧情報がとてもよく分かります。石巻日日新聞の壁新聞も、報道する側は「今伝えられることを伝えたい・知らせたい」と思い書きました。読者もこの思いを感じ、しっかり読んでいました。


■みんなが集まるきっかけづくり
引きこもりがちになる中高年の女性の方が集まってくるきっかけづくりとして、手芸品のキットをお送りしています。手芸は手も動かしますが、口も動かします。知らなかった人が仲良くなります。しじみ貝を加工したストラップや、かえるの形の袋にペレットを入れて、立ったり座ったり形を作れます。高齢者の方でも簡単に作れます。
障害者作業所の仕事づくりとして、新商品の企画をして、作れるようにしています。新商品「結ばなくてもいいふろしき」は、若い人は、蝶々結びが出来ない人が多いので、考えたものです。

■“共感”で人があつまる
西宮の木馬の会の方々にもお手伝いをいただいていますが、材料のしじみ貝がなかなか集まらず苦労しました。東灘の助け合いネットワークにも協力をいただき、チラシを作りました。すると、偶然にも、島根県の宍道湖(しじみの産地)の近くに単身赴任しているご主人とつながることができました。神戸に戻る時には、島根からしじみの貝殻を担いで帰ってもらっています。「努力すれば応えていただけるのだ」と思いました。
店が全部流れてしまい、針や糸を調達するのは難しい状態です。お金があってもなかなか手に入らないものなので、こちらから送ると喜ばれます。

■初めてのお給料日
宮城県の七ヶ浜では、商品をとりまとめているNPOが、わずかですが加工賃をお支払いしました。最初は遠慮されていたのですが、とても喜ばれました。自分の仕事に対してお給料をいただくことは、生きがいや社会とつながっていることの実感につながっているのではないかと思います。

■これからも足しげく通いたい
お互いに人として話をする、信頼関係をつくる。その中で、仕事の話をしたり、悩みを聞かせていただくことが大切だと思っています。「神戸から来た」と言うと「きっとこの人たちも苦労したんやろう」と阿吽の中で分かっていただけることはたくさんあります。私たちも、伝えたいという強い気持ちがありますね。

■“ひと”をみる
肩書きなどに惑わされず、普段から、ひとをみる目やこころを鍛えていくことが大切です。ネットワークをつくって、助け合えるように、日頃からアンテナを張って、いろんな人とお付き合いをしながら、得意技を貯金しておくことが大切だと思います。
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2012年02月08日

2月神戸での住宅再建の経験を、東日本で生かす!じっくり時間を掛けて自分たちのまちづくりを支援。

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ゲスト:神戸まちづくり研究所 一級建築士 事務局長 野崎隆一さん


■ 神戸まちづくり研究所
神戸復興塾(任意団体、1996年〜)が前進で、2000年に神戸まちづくり研究所になりました。復興塾は、大学の先生、都市計画事務所の方、ジャーナリスト、病院の院長、商店街の商店主などで構成されていました。
1998年サンフランシスコツアーを企画し、アメリカのNPOの視察を行い、NPOを立ち上げました。コミュニティに関わることをミッションにしています。

■ 報告会やフォーラムでできた仲間
阪神・淡路大震災当時は、毎日のように2、3ヶ所で報告会やフォーラムがありました。何回も会う人ができ、仲間が形成されていきました。震災から1年、神戸の震災のことを考え続ける、外部へ伝え続けるために、復興塾ができました。


■ 白地の地域の応援
神戸の復興というと、新長田の区画整理、再開発の話などが思い浮かぶと思います。しかし、95%以上の地域は、そのような事業にかかっていません。自分たちで工夫して復興しなければならない白地の地域なのです。自分たちでやるとなると、金銭的な負担も大きくなります。
当時は、マンションの相談(補修か建て替えか)も多くありました。利権を一つにするための話し合いには苦労しました。こじれきってしまうと解すのは難しく、「当事者で歩み寄って和解へ」という動きが理想ですが、残念ながらそれはできませんでした。

■ まちづくり協議会
地域の人がまとまって、復興、まちづくりを進めていくためには不可欠なしくみです。権利者の集まりなので、生々しい話もありましたね。

■ あいウォーク
震災後3、4年で、基金や助成金がなくなり、自分たちで活動を支える仕組みづくりが必要でした。サンフランシスコのNPOで同じような活動を見て神戸でもやろうと思いました。1999年スタートしました。震災後、同じところを歩いて、「ここまで進んだ」「ここはまだまだや」と確認してもらいたいという思いもありました。


■ 東日本大震災から1週間後/松島町・東松島市
医者、看護師、鍼灸療法士などが多かったですが、ひょうごボランタリープラザのバスで東北に行きました。朝に連絡があって夕方のバスに乗りました。0泊3日でした。
昔、スマトラ沖地震の時にスリランカで見たのと同じような状況でした。

■ 士業団体で相談会
権利書を流されてしまったり、権利者が亡くなっているのに登記を変えていない、というケースも多くありました。相談内容を聞いていると、東北の人って人がいいな、と思いました。行政説明会などにも行きましたが、「今はしょうがない」と落ち着かせるというところはありますね。


■ 「いかに快適に過ごすか」を考える
仮設も12〜13箇所まわりました。今回も神戸と同じように仮設は全て抽選で選ばれているので、地域もバラバラで入居されています。仮設は2年と言われていますが、2年以上住むことを覚悟して、その間どうやってここで快適に過ごすかを考えたほうが良いのです。
神戸では、仮設で仲良くなった人が、仮設が解消になった時に「離れたくない」と言い、一緒に暮らすケースもありました。紹介すると「想像もしなかった」と言われました。
東北の人は大きな家に住んでおられる方が多いですが、「(仮設までとは言わなくても)少しコンパクトな暮らし方も考えていったらどうですか?」というアドバイスもしました。

■ ざくっとした復興計画
行政の復興計画が抽象的です。どう復興したらいいか、見えてきていません。国が制度を作っていますが、全部出揃っていないので、地元もどう決めていいか分からないという苛立ちはあります。これは行政も同じです。
神戸は幸い、元来、都市計画の強さ、区画整理のスキルがありました。しかし、今回の場合では市区町村は「県が決めてくれないと」、県は「国が決めてくれないと」と思っています。アドバイザーが間にいて「今やれるのはこういうこと」と示すことも大切になってきます。

■ 復興は被災者が主役でないとアカン!
「自分たちがどうしたいのか」ということが実現していかないと、被災者に元気が出ません。自分は、被災者の話をじっくり聞き、まとめていくことで、被災者自身が気付いていきます。まずは、住民で協議できる場を作ることが大事です。一つ一つ前に進んでいるところを見ながら過ごしてもらいたいです。
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2011年12月28日

2012年1月 「高校生、災害と向き合う−舞子高等学校環境防災科の10年」を諏訪清二さんが語る!

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今回のゲスト:舞子高校環境防災科科長の諏訪清二さん


■全国唯一の環境防災科
環境防災科の授業は、3分の2が普通科目の勉強、3分の1が専門科目の勉強です。商業や農業と同じ枠組みです。いまだに、防災科としては全国唯一です。全国にこんな学科が広がってほしいのですが、「自分だけは大丈夫だ」「被害に遭わない」と思っていることが影響しているのかもしれません。防災が広がらないことと似ています。

■環境防災科で学ぶこと
生徒は、自然環境から災害のメカニズムも勉強します。災害は自然環境の中に台風や受け止める社会の弱さにも関係してくるので、社会のあり方についても考えます。ボランティアや社会福祉、耐震の大切さ、災害の法律や中長期支援についても勉強していきます。(行けるところであれば、)ボランティアにも行かしていただいて活動させてもらっています。

■ボランティア
ボランティアは、「泥かきしてほしい」「家の中の片づけをしてほしい」というニーズに対して愚直にやるという気持ちが大事だと思っています。「単位をとるためにボランティアに行く」というのは、きっかけとしてはあってもいいと思いますが、気持ちとしてはだめです。
ボランティア活動をしていると、現地の人からいろんな話を聞かせてもらいます。当たり前のことをやっているのに、ものすごく感謝され、人の優しさに触れることもあります。被災された地域のお年寄りの寂しさを感じることもあります。
いろんなことを考え、「次の勉強に活かさなければ」という気持ちになるという意味では、変わってくれている人が多いです。

■勉強の材料は防災に関わってきた方の体験や教訓
環境防災科は、現場主義です。(防災科の生徒が、しっかり発表できるのは、)機会があるからです。体験を伝えたいという大きな気持ちがあるから話せるのですが、生徒は慣れて話しています。どんな若い子も、体験をして語る場があれば、きっと語れると思います。今の日本の学校はそのような場を奪っています。
防災は、学校設定科目です。文部省の学習指導要領には載っていません。学校独自でプリントを作ったり、パンフレットや新聞、本の切抜きを教材化することで授業をします。10年間、予習前提の授業はして来なかったです。
残念なことに、災害がたくさん起きているので、防災科である以上、災害と向きあうことになります。災害に関わってきたNPOや行政や専門の人などいろんな話を聞き、災害と向き合うことを学びます。勉強の材料は、常に社会や災害の最先端の人たちの体験や教訓です。

■市民のリーダーを目指して
生徒の進路は、大学進学が7割、公務員就職が2割です。すでに30人くらいが消防に入っています。
消防学校で1泊2日の体験学習もしています。阪神・淡路大震災の体験をもつ消防士の「なぜ防災を広めたいか」という、本気の気持ちに出会え、モチベーションをあげることができます。
進学では、総合政策や人間科学など学際的に学べる学部に進む子もいます。教育、外国語、国際関係、法律、心理などに進む生徒もおり、さまざまです。
核としては、「自分の身を守るためにどう備えるか」「直後には人々をどう支援していくか」を勉強しますが、広い意味で言えば、社会に生きていることそのものが、どこかで防災とつながっています。
「幼稚園の先生になって、幼稚園で防災教育をしたい」「外国語の学部に行って、途上国で防災を教えたい」など、広いつながりを持ってくれています。専門家を目指すより、市民のリーダーになって欲しいと言っています。

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■「高校生、災害と向き合う」
5月に生徒と一緒に東松島市へボランティアに行きました。自分の中にもいろんな思いや課題があり、本にまとめました。

■夜のミーティングの意味
ボランティア活動が終わると、夜にはミーティングをします。
1つは、うまくいったこと、いかなかったことを出し合って、翌日より良い活動をしようという意味です。
もう1つは、あれだけの被災地に入ると、子どももへこみます。見渡す限りがれきの前に立つと、自分はちっぽけだと思います。共有することで、「みんな同じ思いなんだ、自分だけじゃない」という安心感を持つことができます。「ちっぽけだけど、ちっぽけが集まれば仕事になるんじゃないか」と、気持ちを楽にすることができます。

■「明日はもっと頑張りたい」
夜のミーティングで、生徒が言いました。「今日も頑張ったけど、明日も頑張る」という、純粋な気持ちだったのだろうと思います。
「被災程度のひどいところに行くから頑張りたい」と言う言い方をボランティアはよくします。被災程度の重さではなく、被災者はみんな「自分のことも見て欲しい、助けてほしい」と思っています。酷いところ、目立つところに行きたがるのは、ボランティアの悪いところです。
生徒には、「『大変な場所なので頑張りたい』という言い方はやめなさい。明日100%にするなら、今日は50%なのか? 今日の被災者は予行演習なのか?」と言いました。
善意でやっていることの中に、被災者を傷つけていることはよくあります。そういうことに気づいて欲しいのです。

■骨折した生徒、腰痛の生徒、じん帯を伸ばした生徒も・・・
私は、役に立つと思って、動けない生徒も現地へ連れて行きました。寝泊りしたのが松島町の廃校になった小学校の体育館でした。その小学校の教室に30人が避難していました。
動けない生徒は学校に残り、朝から晩まで、避難しているおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたり、子どもと遊んだりしていました。ただ黙ってそばにいて、話を聞くことも、立派なボランティアです。生徒たちはいろんな話を聞いてきていました。

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■「神戸」ということに独特の感覚を持ってくださっている
体育館を借りることができたのは、松島町の副町長さんが手配をしてくれたからでした。よく聞くと、阪神・淡路大震災の時に、カトリックたかとり教会に来て、ボランティアをしていたそうです。その時に、神戸の人にお世話になったという気持ちを持っていて、手厚く受け入れてくださいました。

■4週間、同じところで活動をする
環境防災科の3学年がそれぞれ1週間ずつ、そして、普通科の生徒が1週間、の計4週間同じ地域で活動をしました。活動のときは、高校の体操服を着せます。
1週間経ち、2週間経つと、地元の人が、「ご苦労さん」と声をかけてくれるようになります。仮設に工事に来ている関東の建築のおじさんたちも「おっ、頑張れよ!」と声をかけてくれ、顔なじみが増えていきます。

■「わしの神戸の孫や」
7月と8月に1度ずつ(違う地域で活動の合間に)「もう一度5月に行った地域に、顔だけ見せに行こう」と、行ったことがありました。
ある女子生徒は、おじいちゃんと二人で町中を歩いたそうです。すれ違う知り合いに、おじいちゃんが「この子が、わしの神戸の孫や」と紹介してくれたそうで、すごく嬉しかったそうです。もう一度行くことで、「忘れていません」というメッセージになるかと思いました。
ただ、夏に行く前に、余震があると電話をしたり、手紙を書いたり、何度もやり取りをしていた生徒もいました。生徒のほうが一枚うわてでした。

■2つの継続性
一回行って帰ってきて、「俺は、ボランティアしたんや」というようなボランティアにはなってほしくありません。被災地から見れば、「自分たちの地域にボランティアがやってきて、すぐにいなくなって、忘れ去られるのは嫌だ」という気持ちも、よく分かります。
1つの被災地にこだわり続ける継続性と、一生の中で防災・災害・ボランティアに関わり続ける継続性、どちらも大切です。

■高校生の武器
高校生は私たち大人と比べると、しゃべりやすいところがあるかもしれません。子どもと遊ぶのには体力がいるので、高校生にはもってこいです。純真無垢に入っていって、愚直に働くことで、信頼を得られることは大きいと思います。初めて会った高校生を孫みたいなイメージをもってくれるのは大きいと思います。

■これからもつながり続ける
外から来た、よそ者の自分たちに、一番つらい体験を語っていただいた時、私たちは涙を流すだけで感想なんていえないと思います。そのような時に、「ありがとうございます」と言葉を残すことは大切だと思います。
忘れられていないということや、神戸の人にあなたの体験をつなぐということ、「あなたは一人じゃないですよ」というメッセージを伝えることも大切だと思います。
現地へ行く、神戸に来ていただく活動も続けていきますが、生徒がよくやっている手紙を出す、電話をするというつながりも続けていきたいと思います。
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2011年12月03日

3月11日以降5ヶ月に渡る福島での経験から、12月今こそ神戸の知恵が生きると語る長谷部治さんの提議。

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今月のゲスト:社会福祉法人神戸市社会福祉協議会総務部経営企画課主事 長谷部治さん


■長田に来たのは1995年の2月
阪神・淡路大震災を鹿児島で知り、ボランティアで長田に来ました。大学3年の終わりでした。4年になり大学には戻りましたが、大学は休みも長いので、かなりの時間を長田で過ごしました。翌年、長田の社会福祉協議会に入社し、ボランティアセンターで長く勤めさせていただきました。

■東京での臨時会議
東日本大震災の翌日、東京での臨時会議に行きました。災害ボランティア活動支援プロジェクト会議という全国組織の会議です。災害ボランティアセンターの運営や支援体制について話し合いました。
現地の様子は全く分からない状態でした。全国から人を集めて、ボランティアセンターの運営を手伝うことや、お金のことなどを伝えに行くことになりました。3月12日の夜に、私は、福島と宮城に伝えに行く担当に決まりました。道中で、福島に入れたという委員がいたので、福島は任せることにして、宮城に向いました。
3月13日の未明から2日間、現地の様子を見させていただきました。

■ガソリンがない
宮城県社協・仙台社協の車を緊急車両に指定してもらいました。高速道路上のガソリンスタンドは生きていたので、給油でき、被災エリアの市町村に行くことができました。(正直、それまでは、燃費のいい車の取り合いでした。)

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■2つの大震災の違い
語弊があるかもしれませんが、仙台の町中に入ったときに、「意外と大したことないな」と思いました。自販機やビルもほとんど倒れていなかったからです。
一方で、仙台東部道路という盛土構造の道路をくぐり、海側に出た瞬間に、何もかも流されているという状況でした。「局地的」という表現そのもので、津波の来たエリアが局地的にやられ、その他のエリアは、阪神・淡路の時に比べると揺れの被害が少なかったという印象がありました。
また、「けが人があまりにも少ない」と日赤の医療チームがよく言っていました。全く大丈夫か、お亡くなりになっているかの両極端で、死亡判定をするのと、健康薬の対応をするのがほとんどだったようです。

■過去の災害の経験が通用しない
福島県内のボランティアセンターへ人を送り込むための調整をしていました。初期は、「本当にそこに行って大丈夫なのか?」という議論も大きかったです。
南相馬市の原町区にボランティアセンターを設立したものの、政府の区画では、屋内退避エリアでした。「屋内退避エリアでのボランティア活動をどう考えるか」「テントは屋内か屋外か」など過去の災害の経験が通用しないことも多くありました。

■ボランティアの安全は、被災者の安心にもつながる
過去の経験が通用しない中で、信念を持って貫いたのは、「被災者の方たちは、ボランティアが自分の家や町に来て、怪我をしたり、お亡くなりになって喜ぶ人はいない」ということです。
過去、私が関わった災害ボランティアセンターで3名の方がお亡くなりになっています。4人目を出さないということは、私にとっての命題でした。
この夏は、非常に暑かったのですが断固として、長袖長ズボンは徹底させました。「あなたが安全に帰ってくることが、被災者の人の安心にもつながる」ということをきちんと伝えていきました。
並行して、熱中症対策も必要でした。水分補給のためのスポーツドリンクの手配も私の仕事でした。
特に、計画停電などの影響もあってか、関東勢の当事者意識が極めて強かったです。

■阪神・淡路から16年が経ち、法律も制度も変わった
介護保険の始まり、障害者自立支援法、個人情報保護法などができ、保護条例が各地に設置されていることは、支援活動に良くも悪くも大きく影響していました。
近年は、ケアマネージャーやホームヘルパーが個別に関わっているので、阪神・淡路の時ほど、孤独死リスクは高くないと思っています。福祉に関わる仕事をしている人や家族が多くなったことで、市民の目が変わってきているということもあります。
個人情報保護法には、緊急時の除外規定もあります。犠牲者の一覧がテロップで流れるなどがそうです。しかし、緊急時はいつまでかということは、市町村の条例によって違っていたり、決められていなかったりします。
仮設住宅の入居者名簿が出てこない、避難所の住民の構成が分からないという「情報が全く出てこない」という現象もよくありました。

■市町村をまたいだ避難の難しさ
福島に関して言えば、元の市町村から離れて避難しているケースがよくあります。
飯舘村の村民が福島市に避難している時に、保護条例は、飯舘村と福島市どちらに起因するのか、という問題が生じてきます。
また、相馬市では、避難所だけでなく仮設にも夕食を配っていました。飯舘村の人で、相馬市の仮設に入った人は、夕食があたるけれど、福島市の仮設に入った人は夕食があたらないという問題もありました。

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■福島の34か所の災害ボランティアセンター
発災直後3日以内にボランティアセンターを作ることが、私達の目標です。しかし、今回は6月にも新規のボランティアセンターが出来たところもあります。飯舘村は、全壊、半壊ゼロでした。ところが、空間放射線量が高く、二重避難を余儀なくされ、新たに避難した地域でボランティアセンターが開設されたためです。
福島県下、59市町村に34か所の災害ボランティアセンターが開設されていました。岩手宮城あわせた37エリアのボランティアセンターと同じくらいのボランティアセンターが開設されています。

■今後の支援、今こそ阪神・淡路の経験を・・・
携帯電話やインターネットが普及し、人の生活も変化しました。ボランティアセンターの支援としては、2004年の中越地震、2006年の中越沖地震を参考にすべきことが沢山あります。
応急仮設住宅への避難というと、プレハブの仮設住宅をイメージしがちです。しかし、東日本大震災の被災地では、みなし仮設(民間のアパートやマンションを県や市が借り上げ、仮設住宅として住むことができる住宅)の数はプレハブ住宅のおよそ倍です。通常の地域に住んでいるという実態からすると、災害復興住宅のときと同じ支援対策が必要なのです。
これだけ大規模な復興住宅の支援活動を経験しているまちは神戸だけです。住民を地域につなぐ活動をしていかないといけないと思います。
社協は、阪神・淡路の時、災害ボランティアコーディネーションというより、仮設支援や復興住宅支援を頑張ってきた組織だと思っています。今後、どういう課題や問題が出てくるかということが一番よく分かっているのは神戸のワーカーだと思っています。

■東北から学ぶこと
「阪神・淡路の恩返しをせなあかん」という思いがあります。お返しも大事ですが、一歩違う視点で、東北から学ぶことも必要です。それだけ法律や社会情景も変わっています。今後の災害が神戸で起きた時のことを考えると、東北の取り組みから知ることや神戸に返さなければいけないことも多いのではないかと思っています。

■共同募金の赤い羽根
阪神・淡路のときに、ボランティアセンターをするお金がなかった経験から、2004年に変更され、現在では、共同募金の3%は災害ボランティアセンターのために毎年プールされています。
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2011年11月08日

11月被災した女性たちが主体的に復興に関われる環境作り

1111_masai.JPG11月のゲスト NPO法人ウィメンズネット・こうべ代表理事の正井礼子さん


■ウィメンズネット・こうべ
1991年から男女平等や女性の人権を守る活動をしていました。日常的には、夫からの暴力被害を受けた女性の支援や緊急保護をしていました。震災の前年、一軒の家を借りて、「女たちの家」とし、女性たちが本音で語り合って、元気になれるスペースを開設しました。これからいろんな活動を始めようという時に、震災があり、そのあたりは土地ごと流されてしまいました。家を失ったあとは、六畳一間を借り、女性支援ネットワークを立ち上げ、女性のための電話相談、乳幼児を連れたお母さんや子どもの支援を始めました。結果として、震災で活動が広がりました。

■雑魚寝の避難所で
避難所では、着替えの場所がないことや、子どもの夜泣きに悩む女性が居づらさを感じ、半壊の自宅に戻る人もいました。男性の目を気にして、トイレに行くのを我慢し、水分摂取を控えために、体調を崩した女性も多かったようです。(私たちも東日本の震災を受けて知ったのですが、)「トイレは男女離して作る」という国際基準あったそうです。

■大変なとき、家庭内のもめごとなんて・・・
暴力問題も表には出にくかったものの存在していました。
妊娠8ヶ月、彼と同棲中に被災し、家を失い、彼の実家に居候していた女性です。「子どもなんかいるもんか」と彼から殴る蹴るの暴行を受けていると相談を受けました。「彼の家族はあなたを守ってくれないの?」と尋ねましたが、「頼むから、息子を怒らせないでくれと言われるばかりで、誰も自分を守ってくれない」というものでした。
家のローンがまだあるのに家がなくなってしまって、夫の取引先もつぶれて、毎晩、子どもに暴力をふるう、という相談もありました。
「みんな被災している大変な時なのに、家庭内のつまらないもめごとを相談する私はわがままですか?」とみんな言います。

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■東日本の被災地へ
神戸との違いとして、女性に対する暴力や性被害に対する対策は進んでいました。女性の自衛官や警官が全国から派遣されていましたし、女性の支援団体も予防カードを配ったり、張り紙をしていたり、配慮がされていました。

■そこでしか生きられない、だから我慢する
女性だけで語り合う女性支援セミナーを2ヶ月に1回ぐらいしていました。
そこで、こんな話をした人がいました。阪神・淡路大震災のとき、仮設は辺鄙なところに作られました。小さな子どもがいる人は、なかなか買い物に行けませんでした。代わりにお買い物に行ってくれるおじさんがいたそうです。そのおじさんに感謝して、夕食に招いたときに、被害にあったそうです。
その話を聞き、「その時すぐに、警察に行けばよかったのに」と言った方がいました。その言葉に対し、「そこでしか生きていけない時に、誰にそれを語れと言うのですか?」と言ったのが心に残りました。
今度、災害が起こったときに、そういうことが決して起こらないように、伝えていかなければならないと思いました。

■避難所の運営にも女性を
阪神・淡路大震災のときから、変わっていない点もありました。女性はきちんと意見を持っていて、参画していけるのに避難所の運営にあまりは入れていないことです。女性が運営に関わることで、生理用品や下着の配布一つとっても配慮が出てきます。男女半々のリーダーを置いた避難所では、運営がうまくいき、表情が明るかったといいます。男女それぞれの目線をいかした運営をしていくことが大切です。

■岩手県の復興会議
18人のメンバー、1回目の会議は女性ゼロでした。女性たちが声を上げ、2回目には、婦人団体の代表と栄養士会の会長が入られました。沿岸部が大きな被害を受けました。岩手県漁協の女性部は8300人おられます。北海道に次いで2位の多さです。その人たちが1人も会議に入らないというのは、どういうことだろうと思いました。女性たちの多くが魚の加工場で働いていています。加工場が流され、仕事がないという生活の不安を抱えておられます。そういうことも反映される復興会議でなければならないと思うのです。

■東日本大震災女性ネットワーク
私も、世話人をしています。活動で出たことをまとめて、毎月、国に提言をしていくことにしています。たとえば、復興の仕事が、がれき処理など力仕事が多いので、女性の雇用喪失も考えて欲しいです。市町村レベルで復興会議が行われていますが、なかなかそこに女性が入っていけないし、女性の意見が反映されにくい現状があります。そのような会議には、女性を30%以上入れてほしい、女性復興会議も立ち上げてほしいということです。



■女性の雇用の喪失
大きく取り上げられなかったものの、阪神・淡路大震災では、10万人の方が解雇されました。女性は補助労働だという考えもあり、その10万人の多くはパートなど非正規雇用の方です。雇用の喪失は、シングルの方はすごく大変です。

■安心して住める住まいを
災害時に女性や子どもはうまくいかないことやストレスのはけ口にされがちです。女性は出て行く先がないと、我慢されます。すでに8月に仮設で、DVによる殺人事件が起こっています。困ったときに、SOSをきちんと出せて、その人が安心して住めるすまいを提供できるような環境をつくることが大切だと思います。

■ハンドマッサージ隊になって
保健師、助産師とともに、被災地に入りました。「何かお困りですか?」と聞いても見ず知らずの私たちに話してはもらえませんでした。そこで、持っていたハンドクリームを使って、ハンドマッサージ隊になりました。とても好評で、たくさんの人が寄ってきてくれました。

■ハンドマッサージをしながら
1人10分程度ですが、いろいろな話をしました。ごつごつの手の方がおられたので、「すごく頑張って働いてこられたのですね」と言ったら、「私は3、40年ずっと魚を加工していた」とおっしゃっていた方の手は、包丁の形や魚を握る形に変形していました。ご主人と一緒に船にのって魚を引き上げていたという80代の女性もいました。沿岸部の女性たちはとてもたくましかったです。足湯と同じように、肌にふれることで心が開かれるようでした。
「ハンドマッサージは、誰にでもできます。皆さんもお互いにしてくださいね」と、マッサージクリームを渡しました。
「何がほしいですか?」と聞くと、仕事や車と答えた方が大勢いらっしゃいました。その声を聞いた友人が、廃車にする車を手配して、シェアカーとして被災地に提供するということもありました。

■忘れないでいてほしい
私は、同じところへ行って、同じ人たちと交流をしていこうと思いました。帰るときに、「本当に何もできないのが申し訳ないと思う」と私が言うと、「神戸のときは遠くて行けなかった。でも、今回は、こうして来てくれることが嬉しい。勇気づけられる」と言っていただけました。物資を送ってくれることも嬉しいけれど、「どうしてる?」と電話をかけてくれること、忘れないでいてくれることが嬉しいと言っていました。お友達になっていくことがいいかなと思います。
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2011年11月01日

10月神戸の震災から始まった仮設での支援活動、そこでの知見を東北に拾っていただく。

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10月のゲストは石東直子さん
阪神淡路大震災の後、神戸、芦屋、姫路の仮設住宅の暮らしサポートを16年間続けてきたグループのリーダー。都市プランナー。

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■都市プランナー
ニュータウン開発、再開発、高齢者の住まいや暮らし、しあわせの村の構想・設計など時代とともに様々な仕事に携わっていました。

■生まれも育ちも生粋の長田っ子
阪神・淡路大震災の時は、千里ニュータウンに住んでいました。神戸に母親が1人で住んでいたので、すぐ神戸に駆けつけようと思いました。公共交通機関で行けるのは、阪急の西宮北口まででした。偶然にも、1月17日の朝、西宮市の職員と仕事の打ち合わせの約束をしていたので、西宮市役所へ行きました。

■西宮市役所で
震災から一週間ぐらいたって、仮設住宅の支援が始まりました。仮設住宅の応募用紙を配布する手伝いをしました。用紙を取りに来られる方は、かなりのご高齢の方や一人暮らしの高齢者が多かったです。「仮設住宅にあたっても、地域から離れたら、一人で生活せんわ」と言った方がおられ、それが脳裏に焼きつきました。母が一人で神戸に住んでいましたので、母もどうするのだろうかと思いをめぐらせました。
神戸まで交通がつながるようになって、神戸の日参が始まりました。

■元気な男がつくる建物
高度経済成長期に弱者の視点や暮らしの視点はありませんでした。当時の仕事場は、男社会でしたので、奥さんに暮らしをまかせている元気な男が元気な絵を描いていました。
「これは不便だと思う」と女性の視点を私が言うと「主婦の視点はプロの視点と違う」と馬鹿にされていました。1970年前後に建った住宅は、エレベータもありません。蹴上げも高く作ってあります。元気な人が住むという考え方で、高齢者とか弱者の視点が全くなかったわけです。しあわせの村は、障害のあるなしに関わらず一緒に集える空間、施設ということで開発されました。

■コミュニティの寸断
今まで長年暮らしていたコミュニティからバラバラになってしまったら、生きていかれへん、ということです。隣の人がいたから、近隣でなじんだ環境があったから、生きてこれた一人暮らしの人がたくさんいました。すぐそばに何十年もの知り合いがいる、お昼過ぎまで窓を開けなかったら、「どうしたん?」と窓を開けてくれる人がいる、買い物に行ったら、そこのお店の方とお話ができる、そういう環境があったからこそ高齢でも一人で生きていけたんです。何気ない人間関係、優しさ、目配り、気配りがあって、生きていけるんだと思います。
いくらボランティアが訪ねてくれると言っても、一人で仮設住宅で生きていくことはできないと思います。たくさん食べ物を持ってきてもらっても、心はそれではすまないと思います。

■ふえる孤独死
仮設で2〜4年、やっと隣の人とお話ができるようになったのに、復興公営住宅に引っ越すと、また一人暮らしからはじめなければいけないのです。さらに、公営住宅は、鉄の扉を一つ閉めれば、外部と全く遮断された孤立した状況になります。仮設住宅で、4年半くらいで、約250人の方が孤独死になりました。公営住宅になると、もっと増えるのではないかと思いました。

■ふれあって住める住宅
震災の秋に、「コレクティブハウジング事業推進応援団」というボランタリーを立ち上げ、活動をしました。神戸市の職員に、提案しました。自分の家の面積の10%を出しあって、共同のリビングと、少し広めのキッチンをつくりました。キャッチフレーズは、「たまにはみんなで集まってご飯を食べよう、一人になりたければ自分のおうちに入ろう」でした。全国で初めて、公営のコレクティブハウジングが神戸から発信できました。兵庫県営住宅を含め10地区できました。現在では、長崎や埼玉、北海道へも展開されています。

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■暮らしサポート隊
3月11日の震災があって、「すぐにとんで行きたい」と思いましたが、まわりに止められました。というのも、2004年に手術をして、体力もおち、感染症にかかりやすい状況だったからです。現地へ行きたかったのですが、行けない悔しさがありました。
震災の数日後、関西へも被災地から避難されて来られる人がいることを知り、神戸でできる活動「暮らしサポート隊」を立ち上げました。避難されて来られる方の心の癒し、グリーフケアを長い時間をかけて続けていこうと思いました。ゴールデンウイーク、現地に行く仲間に「暮らしサポート隊」のパンフレットを託しました。

■仮設住宅のサポートを教えてほしい
パンフレットを見た生活習慣改善センターの理事長さんから、突然電話がありました。経験がないので、話をしに来てほしいと言われました。自分の体力がおちて、気力に体力がついてこない悔しさを味わいました。元気人間には気づかない気付きがありました。

■文化の違い
東北の文化は、関西の文化とは全く違う、言わば外国の文化です。東北の文化を大切にしながら、サポートすることを心がけています。被災地でお話をするとき、最初に、「私は関西の文化しか知りません。私の話は、関西の話です。みなさんに合うものだけを耳に残してください」と伝えます。

■東北の避難所生活、仮設住宅
阪神・淡路大震災の教訓を受け、多くの仮設住宅が、今までのコミュニティを崩すことなく、集落単位、コミュニティ単位で入居できるように配慮しました。また、限界集落は、仮設で高齢者ばかりになると困るので、弱者の割合を全体の3割を超えないように意識的に入居させる地域もありました。
避難所生活が長く、高齢者は足腰が立たなくなりました。今は、元気に足腰を回復することを目標にしています。ラジオ体操をする、1日1000歩あるくようにお願いしたいと思います。

■若い世代を育てることも私の使命
阪神・淡路大震災では、50代〜70代くらいの人たちが多く活躍し、若い層があまり育っていません。その反省をいかして、「暮らしサポート隊」には、30代や大学生もメンバーにいます。若い世代を育てていくことも私の任務、一緒に被災地にも行っています。
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9月神戸での経験を東北に繋ぐ「神戸復興塾3.11支援集会」

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9月のゲスト 小森星児さん


■阪神・淡路大震災のとき
東灘のJRと阪急の間の地域、つぶれたのは私の住んでいたマンションだけという地域にいました。地理学者でありながら、恥ずかしいことに、「神戸でこれだけ揺れるなら、東京は海の底だろう」と思いました。歴史的に言うと、神戸の震災の記録は少ないです。地質的に言うと、起こる場所であったことは確かですが、切実感がなかったです。

■さまざまなボランティア活動
自分の家が、なくなったので、マンションの再建組合の組長に押されて、皆さんを引っ張っていかなければなりませんでした。
当時、姫路短期大学の学長もしていました。学生を連れ、避難所や仮設住宅でお世話をする仕事もありました。
加えて、住宅政策が専門なので、「いかに安全な住宅を作るか」ということは職業上でも大切な問題であり、個々のご相談にも応じてきました。

■反省から学問は進歩する
専門家として当然やるべきことだと思います。自分自身の勉強にもなります。まさか「次に大震災が待っている」とは思ってもいなかったので、その場限りのものかもしれませんが、長い間お世話になった兵庫、神戸で力を貸すのは当然だと思っていました。
同じ課題を抱えて、支援活動に参加されています。一緒に活動をすることは、励ましにもなりました。
「自分たちの考え方が間違っていた」、「もっといい提案ができたのではないか」という反省に立って、学問は進歩するものだと思います。

■神戸復興塾での取り組み
専門家の参加の仕方にはいくつもあると思います。一つは、政府や行政のブレーンとなって、復興をお手伝いするという方法があります。もう一つは、現場に入って、現場の苦労を自分の問題として捉え、それについて助言したり、新しい試みを紹介するという方法があります。仕事上、私は、両方にまたがっていました。実際に現場で、犠牲になった方や被害を受けられた方々から、知恵やエネルギーを得たことはありがたいことであったと思っています。

■神戸アイウォーク
アイウォークは、募金イベントとして始めました。メンバーが、アメリカでエイズウォークに参加したのがヒントになりました。震災のあと、多くの民間団体ができましたが、多かれ少なかれ資金不足で困っていました。寄付を集める方法の一つとして、被災地の現場を歩いていただくのが良いのではないかということで始まりました。
アメリカの場合は、10kmほどの間、交差点が全くありません。神戸の場合、鷹取から三宮まで歩くと、70数箇所も交差点があり、誘導員を置かなければなりません。明石での花火の事故もあり、中学生に誘導をお願いするということについても責任が重すぎる、とはばかられるようになりました。アイウォークは、残念ながら3年で打ち切らざるをえませんでした。


■東日本大震災の現場で
5月の末に4〜5日間、宮城県の三陸海岸に行きました。また、7月には1週間ほど、岩手県盛岡をベースに、被災地へ通ったり、被災者支援組織の立ち上げに協力するために行きました。

■方向が定まらない
神戸の場合、目標ははっきりしていました。「復旧は、国が責任を持ってやる。復興は、地元が中心になってやる。」やるべきことも明確で、民間で期待される役割についても、提案してやっていくことができました。
東北の場合は、地域も広く、単なる普及では間に合わないということは明らかです。心が痛む話ですが、災害がなくても、10年、20年後には厳しい状況に置かれる。災害はそれを加速させました。単なる復旧で、元に戻っても意味がなく、何か新しいものを見つけなければならないのですが、いまだに方向が定まっていません。

■3.11被災者支援の会
1つは、被災地へ行って支援をする、神戸の経験を現地で洗い直し、使えるものを準備するという活動です。
もう1つは、避難してこられた方を支援するという、神戸でできる活動です。現在でもいくつもの活動が地道ですが、続いています。いつになったら帰れるかという見通しが立ちにくい状況です。
特に福島の場合は、いつ帰れるか分からないという事情の上に、働き手は福島に残り、お年寄りや子どもたちがこちらに来ているなど、さまざまな形態での避難があります。「神戸で新しい仕事をしませんか」という提案をしても、なかなか反応がありません。
これからの支援のあり方についても難しいところです。

■支援の会は、ボランティアのフリーマーケット
集まってこられた方には、黒板に仕分けして、発表や報告したいことを書いていただきます。現地での支援、神戸での支援、子どもの教育の支援、集まってくる方も多彩です。ボランティアは、年齢不問です。社会人もいれば、引退された方も、行政やマスコミ関係の方もいます。いろんな立場から助言をしたり、自身の経験を語ることで、活動の幅が広がることを期待しています。

■避難して来られた方への支援
行政の受け入れ体勢も十分でなかったので、こちらへ避難してきた方が困っていました。できるだけ神戸、阪神に避難してこられた方を、十分に受け入れたいと思いました。
「なぜこちらに避難して来られたのですか?」と伺うと、「この地域は、阪神大震災の経験があるから、私達の立場も理解してもらえると思った」とおっしゃる方もいます。

■自分事として考える
私たちが、東日本の被災地を支援するのは、困っているからいくというだけではありません。日本のような災害大国では、いつ次の大災害が来るか分かりません。今、ここで学ぶことは、決して他人のためだけではないのです。我々や次の世代のために役に立ちます。そのようなことを十分考えて、参加することは大切だと思います。
例えば、津波に備えて高台に家を建てるというのは、東北だけの問題ではありません。和歌山でも、高知でも、兵庫でも同じ問題を抱えているのです。現地で学ぶということは、同時に、今の我々のために活かすことでもあります。のんびりしている場合ではないということを若い人たちに伝えたいです。
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2011年08月24日

8月 兵庫ボランタリープラザ所長代理高橋さんを迎えて

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2011年8月のゲスト 高橋守雄さん
神戸駅降りてすぐのロケーションにある「ひょうごボランタリープラザ」
そこでの様々な活動をお話いただきました。


■「ひょうごボランタリープラザ」とは?
阪神淡路大震災のボランティア支援を教訓に、平成14年に中央区(神戸駅前、クリスタルタワー6階)につくられました。ボランティアグループやNPOの支援拠点、災害時のボランティア派遣の拠点として活動しています。過去には、但馬や洲本、佐用町の水害の兵庫県のボランティアの活動拠点になりました。兵庫県には、約4000〜5000のボランティアグループがあり、それらのグループに対して、資金面の協力や援助、ボランティアの養成講座なども行っています。市や町のボランティアセンターのボランティアコーディネーターの養成講座や勉強会の実施、人件費補助などの援助もボランティアプラザの大きな仕事です。

■東日本大震災が発生
震災から1週間後の3月18日、井戸知事を先頭に兵庫県の先遣隊として医療やボランティアなど様々な分野の人間が現地に入りました。阪神淡路の時とは被害も違いますので、早期のボランティアの活動の方法を考えました。

■阪神・淡路大震災当時、高橋さんは・・・
県庁の広報課で、プレス対応などにあたっていました。被災地ではなかなかテレビなどを見る機会がないので、臨時FMラジオ局フェニックスを立ち上げました。県庁も非常電源が使えず、水道、電気、テレビは不通でした。私も昔、警察官をしていて、「自分のことより、県民、市民のために、命や財産を守るのが使命だ」と思っていますので、這ってでも行かなければと思い、県庁へ向いました。第一回の災害対策会議から参加していました。県警本部もつぶれていました。震災当日、県庁の情報源は携帯ラジオ一つだけでした。

■スタッフの危機管理、活動に集中できた
7月、福島へボランティアバスを出しました。原発から数十kmの海岸で、活動することになりました。原発のことが気になり、初めてスタッフ全員に携帯ラジオを持たせました。その時に大きな余震があり、東北沿岸に津波警報が出ました。彼らは、いち早くラジオで情報を知ることができ、ボランティアを一時、高台に避難させることができました。スタッフがラジオを聴いていたことで、ボランティアからも「活動に集中できた」という声を聞くことができました。

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お相手はいつものように西條遊児さんです。


■ボランティアの前さばき
ゴールデンウィークの連休を前に、ボランティアが高速道路に集中するということを考えました。被災県の行政は混乱しているので、ボランティアの前さばきをするセンターがいるということを考え、知事に進言しました。阪神淡路大震災の時にも、大阪に似たような拠点があり、そこから被災地に入っていただいた経験がありますので、今回はわれわれがその役割を果たそうと思いました。まず兵庫県がやれば、他府県も一緒に考えてくれるのではないかと思ってはじめました。
泉パーキングエリアの空き地に、昔、料金所であった大きな建物があります。そこは、7、8年前に廃止になりました。提供して欲しいと東日本道路会社に頼みました。厳しい条件がたくさんありましたが、ボランティアの必要性が世間から言われはじめ、東日本道路会社も積極的にやっていただきました。4月20日から5月15日まで活動していました。

■インフォメーションセンターでは
現地のボランティアのニーズをお伝えしたり、行く先を決めて来られなかった方へ最新の情報(交通情報、宿泊情報など)を発信したりしていました。朝7時から夜6時まで、現地のボランティアスタッフなどもあわせて20人くらいが在中し、ボランティアの前さばきをしました。

■ボランティアの変化
連休が終わってボランティアの数は、少し減りました。夏休みに入り、若いボランティアが増えてきていますが、7月末で、70万人くらい、阪神淡路の半分程度です。兵庫県は、日本の真ん中あたりなので、来やすいということがありました。東北はやはり遠いです。飛行機や新幹線など交通のボランティア割引を導入してほしいと言っているのですが、なかなか実現しません。私どもでは、ボランティアの足を確保しようと、バスを走らせています。兵庫県で7月までで70台くらい出しました。バスの中で寝るので、40人定員のバスでも20人ほどしか乗車できません。

■県外避難者の里帰り
7月に福島へ、8月に宮城へ里帰りバスを出しました。「一度帰ってみたい」「こちらでの生活が安定してきたので、ボランティアをしてお返ししたい」という思いからです。多くの反響がありました。これからも継続的にやっていきたいなと思います。

■学生のボランティア
私どもで、この夏、約40台ボランティアバスを出しています。民間団体が出しているバスを合わせると全国でも突出して多いです。兵庫県は舞子高校で有名ですけれども、彼らのいい影響を受け、他の学校も行きたいという声があがっています。4日間行くだけでバス1台、約40万円かかります。若い学生たちの熱意を打ち消すことはあってはならないし、助けてやりたいという思いもあります。高校から依頼を受け、現地との連絡などをお手伝いすることもあります。校長会でも発表されて、競うようにボランティアに行きたいという声があがっています。人数が少ない学校は、数校で集まって一緒に行きましょうという声かけもあります。他の行政機関は、経費面もあり、辞めていっています。阪神淡路の恩返しだということで、県民に理解が得られることだということで、思い切った経費も積んでくれます。若いボランティアが行きやすい条件を整えていきたいと思っています。

■息の根の長い支援を
避難所から仮設へ入れば、夏なら日よけのすだれをつくりに行ったり、植栽をしたり、虫除けに行ったり、話相手になったり、冬になると雪よけをしたり息の長い支援が必要です。兵庫県や神戸市は、他府県が辞めても、やらなきゃならない、教訓や役割があると思います。

■兵庫から、神戸から
阪神淡路を経験しているのは全然違うと思います。「神戸から」と言うと、地元の方は、安心してさまざまな相談をされます。その時その時にニーズは違いますが気持ちは同じです。阪神淡路の時は、この時期になるともうほとんど分かっていましたが、東北の場合は、行方不明の方は「まだ生きているんだ」という気持ちがあります。まだお子さんを捜し、海岸へ行っておられる親御さんがたくさんおられます。

■もしものときの心構え
災害は、本当にいつ来るか分かりません。遠くにいてもできる支援はなにか考えていたいと思います。いつも、近くにいる仲間やネットワークを大切にしながら毎日を生きていたいと思います。情報はとても大切です。ラジオは携帯のように持っておられたら良いと思います。
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2011年07月28日

7月 阪神淡路大震災の産業復興と東日本大震災の災害復興〜地域の特色を語る。

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7月のゲスト 神戸市産業振興局参事 三谷陽造さん


■阪神淡路大震災当時は?
神戸市の経済局工業振興課にいました。造船、ケミカル、鉄工所など現場を歩いて涙を流しました。工場がなくされ、従業員の方も自宅をなくされて、長田に居ることができないという状況の中で、なんとか長田に戻ってきていただいて、ここで仕事をしていただくために、何ができるかということで動いていました。まずは、働く場所の確保のために動きました。

■仮設の工場を建てる
仮設の工場の用地をどこにもってくるか考えたときに、仮設とは言え工場ですので、音、においなどトラブルが出ないようにしなければならないという配慮も必要でした。住居が禁止されている工業専用地域か山の中ということで探しました。結果としては、工業専用地域にまで仮設が来ていましたので、少し離れたところに建てました。第一期の長田の人には、4月1日に鍵渡しができました。本当はもっと早ければ、もっと良かったとは思います。仮設の工場はもちろん足りませんでした。第一期の抽選は、倍率が15倍くらいありました。抽選を公正にするために、警察官立会いのもと、公開で行いました。当たった人は涙を流して喜んでくださいました。

■地域ぐるみで分業されていた長田のケミカル
次は兵庫に工場を建てました。今までずっとやってきた土地に愛着があるのは分かっていたのですけれども、長田には土地がありませんでした。ケミカルは本当に見事な業界で、長田という地域、地域ぐるみで分業ができています。内職、裁断、ミシン、材料…いろんな方が自分の役割でもって地域におられます。どれ一つ欠けても成り立たないのです。西神や兵庫へ行ってしまうと、非常に不便だということはありましたね。

■成果は…
実は、いまだに感じていません。商売は、景気の波に左右されます。景気がよければ、仮設工場、貸し工場、自分の工場とステップを踏んでいけたと思います。平成7年は「失われた10年」の真っ只中でした。そのあと、リーマンショックがありましたね。中国のウエイトが高くなると、靴の業界も中国抜きでは語れなくなりました。完全に戻ったということは言えないと思います。ただし、業界も行政もやれることはしっかりやりました。復興はしたのだと思います。商売が景気に左右されることから、神戸はあまりにタイミングが悪すぎたということだと思います。

■新しくなったまち
新長田駅の北あたりは、まだ空き地もありますね。まちはきれいになりましたが、以前のような活気がないといけないと思いますね。

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聞き手はいつものように西條遊児さんです


■岩手の被災地へ入って
いままでに、岩手県を中心にのべ2週間ほど行きました。東日本大震災があって、いろんな方から意見を聞かれたのですが、現場を見ていないので言えませんでした。
個々の集落の面積は神戸とあまり変わらないか、現地のほうが少し広いくらいです。ただ、根こそぎもっていかれているので、残っているものがありません。人も、家財も、船も、網も、何も残っていません。被害の規模は、とんでもない額になることは、容易に想像がつきました。

■どう考え、進めていくか
岩手は漁業、そして漁師さんがとってきたものを加工して商品にして全国に流すという一つの流れがあります。様々な加工をすることによって、商品に価値を生み出しています。一括りになって岩手を構成してきたのです。今は、それが全てなくなっています。われわれが行って何ができるか、というよりも、どのように物事を考え、進めていくか、ということを伝えるために自分は現地にお手伝いに行っていると思っています。岩手では、漁協の方や市町村役場の方、加工業の方などとお会いしています。

■9月に始まる鮭の漁に向けて
漁協の方でしたら、港の復興、船の確保などのお話をしますね。鮭を秋味とも言うように、鮭の漁は9月に始まります。それまでにこの状況を何とかしなければ、彼らは食べていけないわけです。お金の問題もあります。船がないと漁はできません。石巻だと、港が下がって水がくるので、港も整備しなければなりません。本当は全て一時にできるのが一番望ましいです。しかしそれはできないのです。一番急ぐものは何か、応急的処置を講じなければなりません。残った船でスケトウダラなどをとっています。しかし、加工工場も、製氷機も使えないため、飼料として使っています。

■生活再建
船がなくなってしまったので「やめたい」という人は各港に何人かはおられるようです。でも、ほとんどの方は「やりたい」と言っておられます。長田のときに、ケミカルや鉄工所の人が「やめたい」と言った人が少なかったのと同じような状況かもしれません。
日銭の稼ぎ方としては、緊急雇用の制度を使う方法があります。畑の瓦礫を取り除くように、港の瓦礫を取り除くということは各港でやっています。でも、漁師さんの本分は漁をすることなので、そこにもっていかないといけませんね。残った船はフル稼働の状態です。ある港では、9月の漁にそなえて、漁師さん全員で定置網を繕って準備していました。
生活再建と言っても、避難所から仮設住宅へというように住むところを確保したとしても、家族4人で月々15万いるとなったときに、その15万をどうするの?っていう話ですからね。そこが生活再建の大きな部分だと思います。

■知恵を総動員して大胆な政策を
経済上の話ですと、阪神淡路大震災の時と同じような話がよくあります。あのときの経験を踏まえて、国も県も市町村も、神戸がやったことよりも、もっと大胆な発想で住民を支援してほしいなと思います。こんなに大きな災害となると、これが前例になると思います。次のときに前例がないではいけないと思います。人が動かないと元には戻らないと思います。
東南海・南海地震といわれてもなかなか実感がありませんよね。言い伝えだけではなかなか想像し難い部分もあると思います。現地に行くと、20mの津波が来たというのは、感じることができます。実感することは大切です。現地にお金を落とすことも大切です。東北地方と言っても、全てが潰れているわけではありませんので、現地でどんどんお金を使っていただくことで、潤うと思います。
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2011年06月15日

6月大学での防災学習、そしてFMわぃわぃでのインターンを通じて、被災地支援を次世代の思いで伝える

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2011年6月は、FMわぃわぃのインターン稲田靖子さん


■FMわぃわぃのインターンシップ
神戸学院大学で防災・社会貢献ユニット(「大震災を語り継ぐ」2011年3月で紹介)で、防災教育を勉強し、この春、卒業しました。大学3年生のときに大学のインターンシップでFMわぃわぃに来て、以来ずっとインターンをしています。

■防災を勉強するきっかけは?
大学1年生のときに、偶然受けた授業がきっかけで、防災の分野に興味を持ちました。当時、私は、有瀬キャンパス(神戸市西区)に通っていました。その授業で、キャンパスにある大時計の話を聞きました。その大時計は、震災時に明石の天文台にあった大時計でした。身近にも震災のこと、学ぶことは沢山あると感じました。もっと神戸のことを知りたいと思いました。

■大学では…
防災・社会貢献ユニットでは、阪神・淡路大震災を経験した人からお話を伺ったり、実習などでボランティアに出かけたりしていました。防災教育の教材を作ったり、出来上がった教材を持って出前授業に出かけたりもしました。

■防災教育の教材づくり
小学校では、教科の勉強が中心で、「防災」の時間をとっている学校は少ないので、各教科と防災を結びつけた教材の作成をしていました。
私は、分数の計算と防災のクイズをあわせた算数の教材を考えました。防災のことにあまり詳しくなくても、算数、分数の知識がヒントになって答えが導き出せるように工夫をしました。防災のことは普段の授業ではなかなか習わないことなので、子どもたちは、とても興味を持ってくれました。

■東日本大震災の被災地へ…
今までに2度、機会をいただき、被災地へ行きました。1度目は、3月末に、ひょうごボランタリープラザのバスに乗って、宮城県の松島町に行きました。松島町は日本三景の松島がある町です。私は松島の遊覧船などがある湾のご家庭に泥かきボランティアに行ったのですが、「床上くらいの津波が来た」と聞きました。


■松島町に行って
私の大学からは学生が8人一緒に行きました。バスに乗り合わせたのは全員で30人くらい、学生だけでなく一般の方もおられました。炊き出しがメインの活動でしたので、姫路のおでんの団体や佐用町の方などB級グルメの方も一緒でした。
初めて泥かきをしたのですが、船も流されていて、油なども混じっていて足元も滑りやすい状態でした。活動しているときは、気持ちが高ぶっていたのかあまり感じなかったのですが、気がついたら雪が舞っていました。考えたら寒かったんだろうなと思います。

■岩手県・大槌町に行って…
NPO法人さくらネットのプログラムでした。関西の学生と岩手の学生で、たこ焼きを焼いて、子どもたちと遊んで、みなさんに喜んでもらおうというプログラムでした。
夜行バスで行って、現地で2日間活動をして、夜行バスで帰ってくる、という日程でした。
1日目は、あいにくの天気でしたが、本番の準備をしました。たこ焼きのチラシを避難所に配りに行ったり、子どもと遊ぶ準備として、計画をたてました。

■2日目、たこ焼きは成功?
鉄板が新品だったこともあって、最初はまともなたこ焼きが全くできず、焦りました。行列ができてしまったのですが、苦情も出ず、温かく見守ってくださって。
最後には丸いたこ焼きが焼けるようになって、(みなさん焼けなかったところも見てくださっていたので、)一緒になって喜んでくださって、本当に嬉しかったです。

■ボランティア活動に参加して
最初、バスの中で「たこ焼きを焼くだけ? 意味があるのか?」「泥かきがしたい」と言っていた仲間もいました。一生懸命たこ焼きを焼くこと、自分が出来ることを一生懸命することで何か伝わったり、感じてもらえることがあるのだなと思いました。
私も、特に何ができるとか、これなら自信があるとか、ということないですけど、「だれかのために何かをしたい」という気持ちがあれば、その気持ちは相手の方にも届くと思います。迷っているなら、ぜひ動いて何か自分で感じて欲しいと思います。
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