2008年08月02日

8月の放送パート2 避難所で思わず隠した韓国名

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8月のトーク2 韓国語講師 李玉順(リ・オクスン)さん

FMわぃわぃの放送を担当していた。活動は立ち上げ時から10年ほど続いたが、今はお休み中。

イさんは在日3世で、20年ほど前に神戸に来た。震災当時は新長田に住んでいた(火災被害が特にひどかった地域)。地震直後、家を出ると崩壊した建物が全て南方向に倒れていた。他人の家の屋根を通って大通りへ出た。負傷はあったものの、6人家族全員無事に脱出できた。近くの小学校に人が集まり始めて避難した。

避難所では、差別をされた。しかし避難所だからされたのではなく、潜在的にあった差別意識が顕著になった感じだった。自分が弱っているときだからこそ本能的な感情が出たのではないかと思う。当時、自分は日本社会経済が成長したので日本人の意識も成長した、と思っていたが、関東大震災時の、政府の仕業だといわれている噂(すべての矛盾を在日朝鮮人のせいにしたもの)を思い出し、子どもたちのことが心配で漠然とした不安がよぎった。そのため、避難者登録を、通称名を用いて行った。
高校卒業時までは通称名を使い、いずれ名実共に日本人になることを目指していた、つまり日本に帰化しようとしていた。日本人になることで全ての嫌なことから解放される、楽になると思っていた。当時在日外国人が、日本で同じ権利を持って生活する選択肢は帰化しかない状況だった。知識を得て、考えた末の選択肢の一つとしてではなかった。しかし高校卒業後民族大学に行ったとき、朝鮮名を使っている人々と自然なままに触れ合い、共に国の歴史、文化、言葉などを学んだ。彼らと溶け込んでいったときの安心感がやみつきになり、どんどん知識を取り込んでいった。そして朝鮮人の自分が自分の名前で生きていくことに何の問題があるのか?と思えるようになった。それからは本名を使って生きていた。息子は幼稚園から民族学校に通わせた。

しかし震災時には子どもが関東大震災のときのような被害にあうのではないのかと心配し、思わず通称名で登録をした。自分の本名しか知らない知人が自分を訪ねてきたときに「イ・オクソン」という人間が避難所に存在せず「亡くなったのか」という誤解が生じてしまった。

震災後はFMわぃわぃなどを通して、在日外国人を支える活動を始めた。避難所で通称名を使ってしまった自分が恥ずかしくなり、今までの自分は本物ではない、という思いが残った。それから自分を鍛えるような(他の人と共に育っていくような)状況に身をおき、ボランティアをすることにした。今も、外国人(定住であれ一時滞在であれ)の持つ問題は根本的には変わっていない。そのような日本社会を変えるには、お互いを知ることが必要である。隣に色んな外国人が住んでいることを知るべきなのである。国際化国際化と騒がれているが、地に足の着いた純粋な国際化がされていないことが、震災の時に明らかになった。普段から国際化を認識していて、外国人と共生しているつもりでも、非常時にはどうなるかわからない。震災時は「日本人が大変なときに、外国人にかまっていられるか」という意識が個人レベルでも行政レベルでも伝わってきた。しかし今の日本社会は日本人だけでは成り立たない。好む・好まないという問題ではなく、共生しなければならない、のだ。線を引くという問題は社会で起こっているのであり、それは外国人問題ではなく日本の問題なのである。例えばフィリピン人などを看護師として招へいする協定も、その後起こりうる問題なども考慮していかなければ成り立たない(覚悟や知識の必要性)。外国人問題は、女性問題、障害者問題、高齢者問題と同じ日本の問題なのである。

金栄さんのコメント
賃貸住宅を扱っている以上、色んな国の人たちが来ても可能な限り努力をして入居差別など起こらないよう仕事をしているつもりだが、イさんの話を聞いて、今までの自分を振り返って耳が痛い。日本人皆、イさんの話を心に留めておいてほしい。
posted by FMYY at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

8月の放送パート1 陥没の道路を疾走した

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西條さん:夏は暑い.大震災の後は特に暑かった。
震災で高い建物が崩壊して、影がないので暑かった。
震災から13年半経ち、宮城岩手の方や中国の四川でも地震があった。
震災のことを忘れる人もいるかもしれないが、忘れないためにも
この番組で伝えたい。

8月のトーク1 カナエ不動産 金栄道夫さん

神戸甲南ライオンズの会員で、主に献血に関する活動をしているが、震災時は会員の安否確認を第一に行った。普段神戸甲南ライオンズは献血活動に力を注いでいて、今年は設立45周年なので力を入れて活動したい。

仕事は不動産管理(仲介、賃貸・売買関係)。主に家主と借りたい人との仲介、調整をしている。

震災当時は家屋が崩壊して住むところがない、物件が無い状態だった。避難所を出てからも行くところが無い、という人がたくさんいた。特に文化アパートはほとんど崩壊した。震災後のトラブルとして多かったのは、法律のずれ(リフォームにより以前より家賃が高くなった、など)。そんな中「より安い物件が欲しい」などの要望も多くあったが、物件そのものが無いため難しい問題だった。市民が家を求めて県外に引っ越していった。しかし一時的引越しのつもりが帰ってこられなくなることもある。家主さんも自宅が崩壊し、自分の持っているマンションは一部崩壊で無事でも、満室という状況においては家主なのに住む家が無い、という問題もあった。そういう家主たちから、物件を紹介してくれという要望もあった。

自宅、会社近隣(灘区水道筋の商店街)は多く崩壊した。地震当日はたまたま父が早起きをして顔を洗っているときで、ガラス戸で腕を負傷した。近くの稗田小学校は自衛隊が来ていて、物々しかったのを覚えている。

あれだけの震災が起これば、どれだけの準備をしていてもかなわないのではないかと思った。しかしインフラ整備などは、日常から徐々に整えるべきである。震災により、非常時の不動産の仕事(仲介や物件探し)については経験済みとは言えるが、当時崩壊しなかった建物の補強などはまだ進んでいない。耐震化はあまり進まずのままなので、さらなる強化が必要である。
 
中国四川の地震を見て再確認したが、家の補強は大切である。特に公共の建物(小学校など)は避難所となるべき場所であるにも関わらず、真っ先に崩壊しているのを見て悲惨だった。

今後は経験を生かして取り組んでいく必要がある。


posted by FMYY at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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