2010年11月11日

11月「震災」対応でメディアとして学んだ報道のあり方

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11月のゲストは、地元テレビ局サンテレビジョンの門前喜康(よしやす)さん。
震災がご自身の全ての目線を大きく転換させたという貴重なお話をいただきました。


■震災直後、門前さんは?
震災当時は、サンテレビの報道現場で記者をしていました。長い報道人生の中でも、大きな出来事でした。
住まいは西神でした。「地震だ!こんなに神戸で揺れているのだから、東京が壊滅したのだ」と思いました。父も母も無事だったので、四輪駆動で6時前に家を出ました。発災直後だったので、長田近辺の煙、夢野あたりでは瓦やがれきもたくさん落ちていて、だんだんと実感していきました。停電で信号は消えていたはずなのに、クラクションの音1つしませんでした。夢みたいでした。ポートアイランドのサンテレビに向かいました。

■サンテレビは?
6時半の放送に向けて準備でした。
8時14分に放送がはじまりました。
スタジオの扉がとれ、カメラも折れていましたので、整理するのに時間がかかりました。
技術の職員がチェックをしていました。彼らが千手観音のように見えたことを覚えています。出演者は、島内に一人いたのと、OBの方の支援などもあり、大丈夫でした。


■みんなで助け合って震災報道を続けた
技術が報道記者のようにリポートしました。中継の絵もないので、スタジオに残ったカメラで窓から外の様子を撮ったりしながら出していきました。私の手元にあった電子手帳を頼りに、「(地名)の○○さん」とお名前を書いた紙をカメラの前に置き、各地の人とアナウンサーが話をしました。各地の方に状況を伝えてもらい、点を線に、線を面に、という放送をしました。

■報道方針は?
サンテレビにも災害時の報道マニュアルはありました。しかし、自分の局が被災するというマニュアルはありませんでした。自分達が被災者。被災した建物、被災した組織。自分達が一番ほしがっている情報を放送に結び付けていこうとしました。

■安否情報も伝えた
2日目までは、安否情報もしましたが、追いつきませんでした。生活情報を伝えました。
少しすると、電子的な文字も出せるようになったので、文字と言葉で伝えていきました。

■どんな心構えでしたか?
「センセーショナルな取材はしない」これは一番はじめに決めました。自分達も被災者の痛みが分かるからですかね。会社の仲間、家族、知人、みんないろんな形で被災しているので、実感していたのだと思いますね。

■中央と地方の温度差
関西拠点のメディアとその他では、本当にいろいろとトラブルがありましたね。
長田なんかは、火事のあとの熱気がまだある頃に、どんどんカメラマンが入っていくという状況を見ました。そこは誰かのお宅であるかもしれない、もしかしたらまだ埋まっておられるかもしれないという場に入って行ったメディアに、怒鳴って、引きずり出したということもありました。
キー局や本社が中央にある在阪のテレビ局や新聞社は、すごく悩んでいましたね。私たちは、独立だったので、それはありませんでしたが。


■当時の取材の中での苦労は?
取材はたくさんしました。けれど、最も優先すべきは生活情報でした。他社に比べて、取材したものをなかなか映像として出せませんでした。歯がゆさ、ジレンマはありましたね。

■大変な経験から学んだことは?
ボランティアというものは「何か他のことをする」と思われがちだけれど、そうではないんじゃないかと思うようになった。先生が炊き出しをするのではなく、板前さんが炊き出ししてくれたら、おいしい炊き出しになる。そのかわりに先生は、心のケアをしてくださったらいいのではないかと。
普段の仕事も、もっと社会と、一人ひとりと関わっているということを考えると、また違った放送ができるのではないかなと思うようになりました。

■川柳に応募!
自分なりに、震災を表現してみようと思いました。ちょうど川柳の募集をされまして、応募しました。今までに川柳を作ったことはありませんでした。
「冬の雲 仮設の窓に チマチョゴリ」
在日の方の取材をさせてもらった時に、部屋にすごく鮮やかなチマチョゴリがかけてあったんです。震災、被災ということを実感したのが、強烈な記憶に残っていまして、川柳を作ったものです。今も川柳を作っています。

■これから・・・
新しく入ってきた新入社員には、震災当時の映像を見せたりしています。当時のことをいろんな方法で知ってほしいなと思います。メディアは、発信し続けることだと思います。
地域でも、お祭りや催しで、「災害」というものひとつの目線で、やわらかいタッチでいいので、入られたらコミュニティが変わっていくのではないかと思いますね。
具体的に何か動いていくことで、新しいコミュニティができると思います。
新しい時代の、新しいメディアを十分に活用して、世界中に発信してもらいたいですね。発信しているということを「やってるよ」ということも伝えてほしいですね。

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2010年11月07日

10月震災時のラジオ関西での実体験「声の持つ力」、そして現在のコミュニティラジオFM三木の現場から

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10月のゲストは、震災当時ラジオ関西の現場におられ、現在はFM三木の放送局長でいらっしゃる山田健人さんです。聞き手の西條さんとは長いお付き合い。震災当日はスタジオで共に震災情報を放送していた仲間でもあります。


■コミュニティFM局
FM三木はH8年にできた局です。行政などが力を入れて、小さなエリアだけれども、確実に身近な情報を出せるメディアを作りたいという思いで作られています。コミュニティFM局は今、全国230局あります。
「FM局」というと、音楽をイメージされる方が多いのです。しかし、そうではなく、街の中のさまざまな情報を伝えよう、いざという時にみんなが親しみを持って、安心して聞けることを前提にした災害情報、安心情報を出していこうというのが大きな柱です。普段から、地域のこと、まちのことを頭に入れておくのが大事な仕事ですね。

■コミュニティFMの良さ
FM三木はガラス越しに見えます。戸を開ければすぐに誰でも入って来ることができる気軽な環境にあります。リスナーさんとは、身内みたいな関係です。コミュニティ放送は、24時間年中無休が最近多いです。大きなことがあった時に、普段聞いていないラジオ局はきっと誰も聞かないと思います。だから、24時間年中無休は、いつもひねってくださいね、というためにも必要なことなのです。

■阪神淡路大震災当時、山田さんは? ラジオ関西は?
当時、私はラジオ関西の報道制作局長でした。
ラジオ関西は、地震が起きてから、15分弱、放送は途絶えたものの、電波は生きていました。6時の時報が鳴ったとき、「入っている!」「放送ができる!」ということに気付きました。悲痛なアナウンスで始まったのが午前6時でした。第一声は、藤原正美さんの「喋りましょうか」という掛け声でした。
社屋は全壊しました。粉塵舞い上がる、ヒビの入ったスタジオからの放送です。凄まじい余震もありました。

■地震発生後、車で局へ
自宅までは、30分弱でした。車で垂水から山道を通って、離宮道のところから、海のほうを見ると、道沿いに毛布をかぶった人たちが見えました。「これは大変なことになったぞ」と思いました。
須磨区行幸町の本社へ。ラジオ関西は、CMなしで、放送を続けました。
最初は、何も情報がありませんでした。命からがら出社してきた社員を放送に出演させました。局に電話をかけてきた社員の情報も放送にのせました。


■災害対策本部の責任者として
災害対策本部をつくりました。本部長は社長ですが、大阪に住んでいて来ることができなかったので、集まった我々が実施本部を立ち上げました。

■リスナーさんからの安否情報・生活情報
泊まり明けの記者がいました。偶然、鹿児島の大水害の教訓を活かした南日本放送の講演会に勉強に行っていた記者でした。安否情報がいいのでは? という提案をくれました。
いつもリクエストを受けている電話7台を使って、午前8時から安否情報を受け付けました。731-4321は奇跡的につながっていました。紙を用意して、名前と内容を伝え続けました。
最初の一日はほぼ安否情報でした。次第に、安否情報のなかに、人工透析のできる病院、ガス漏れ、給水車などの生活情報が出てくるようになりました。
69時間CM抜き、夜中も休まず、ノンストップで放送しました。永遠と読み上げる仕事、ボランティアもたくさん来てくれました。吹田に住んでいた社長も、出社後は電話を受けていました。

■制作局長として気をつけたこと
裏が取れない情報であるので、あまりにおかしい情報は、放送しないようにしました。
気持ちは一つでした。キーワードは命。命を守る情報を被災地のど真ん中から発信しようと思いました。

■地べたを這う放送、それが良かった
高速道路の倒壊現場の記者は、トラックの会社名やナンバーを一つずつ読み上げました。1階が倒壊したマンションでは、つぶれた部屋の番号を伝えました。
火事で息子さんを助け出せず、絶望し歩いていたパン屋のおじいさんに出くわした記者もいました。こんなシーンはいくらでもありました。一つ一つに「大変ですね」って言えない。事実を、具体的なものを積み重ね、淡々と伝えることしかできないのです。

■今後の災害に備えて、これからのコミュニティ放送は?
災害時には、的確な情報が必要です。やはり、これにはかなりのキャリアと体験が必要だと思います。しかし、コミュニティ局には、スキルを熟練する機会があまりありません。これが、心配なところです。
JCBA(日本コミュニティ放送協会)の近畿の集まりに私どもも入っています。近隣の5〜6局を集めて、災害時の支援協定を結んでいます。
コミュニティ放送の強みは、地元を良く知っていること(人、地名など)。普段は、どんな番組でもいいから、聞いてもらえる放送が大切です。そして、放送局と地域の人との信頼関係を積み重ねていくことが大切だと思います。

posted by FMYY at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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