
12月のゲスト NHK大阪放送局制作部チーフディレクター京田光広さん
神戸出身のメディアの人間として、「やらなくてはならないこと」。それが大阪局に戻ってきた自分としての作品「その街のこども」だった。
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■東京から大阪へ・・・
東京では、クローズアップ現代や教育テレビのドキュメンタリー番組を担当していました。大阪に来たのは、震災12年の前の年の夏。東京時代は、震災には関わらないようにしていました。大阪転勤で「大阪に来たからには、テレビマンとして、震災をやらなければならない」と思いました。「やりたい」というより、使命感という感じでした。
■「この街の子ども」とは?
NHKのドラマが映画になって上映されるのは初めてのことです。震災15年の特集ドラマで、1月17日夜11時に放映されたドラマです。主演は、森山未來くんと佐藤江梨子さん。それぞれ神戸大学附属住吉小学校4年生、住吉中学校の時に東灘区で震災を体験しています。役どころと実際の体験が重なるような役になっています。当時、震災を体験した子どもが、様々な理由があって神戸を離れ、東京で暮らしている。心の傷、震災を封印して東京で暮らしていた二人が、偶然、新幹線に乗り合わせます。佐藤さんは1.17の集いに行くために、森山君は新幹線内の電光掲示板を目にして、なんとなく新神戸で降ります。なつかしい街を歩き、暗闇の中で話をしながら物語は進んでいきます。二人はクライマックスで、1.17のつどいに行きます。
■ドラマの撮影は?
11月初旬から11月20日すぎまでで主な部分の撮影はしました。ラストシーンの3分は、放送当日の朝(1月17日)に撮りました。ラストシーンの東遊園地の明かりと空間や空気は全てだ(他では表現できない)と思っていたので、当日の朝に撮りました。他に選択肢はありませんでした。
■ドラマの反響は?
番組ホームページに頂いたメール1つ1つが、素敵でした。劇場公開にたどり着いたのも、神戸の方々から暖かい声をいただいたことが大きいです。一番心配だったのが、神戸の人に見ていただけるか、見ていただいた方が認めていただけるかどうかでした。たくさんの声が、支えになって、ここまでたどり着きました。

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■震災のときは?
生まれは、甲子園で、両親は今も神戸に住んでいます。震災の時は、東京にいて、寝ていました。7時すぎに大阪にいた後輩からの電話で地震を知りました。テレビをつけたら阪神高速の映像が飛び込んできて、すぐに局に向かいました。午後になって、死者も多くなってきていたので、「(家族は)もう無理かな」と、思っていました。案外、冷静でした。親とは、14時すぎに連絡がつきました。自分も、その日の夜から大阪局に入って、報道に携わりました。「土地勘もあるのでいい仕事ができる」、「この事態の現場にいないのは・・・」と思って仕事をしていました。終わってみれば、家族を見捨てたというのが、ずっと残っていました。
■震災番組に関わるようになって
震災12年のときから震災番組に関わるようになりました。大きなテーマとして、「震災から生まれたもの」を伝えたいと思っていました。震災12年の時は、「ボランティア」をテーマに、CODEの村井さんたちの様子を伝えました。震災13年の時は、臼井先生の「しあわせはこべるように」など、被災地を勇気付けた歌の物語を紹介しました。この時に、森山未來くんにナビゲーターをしていただいたのが大きなきっかけでした。小学4年生の時の体験で、よく分からないことがたくさんあって、この番組に出ることがきっかけで、彼はお母さんと初めて震災当時の話をしたそうです。当時、子どもだった子どもたちが15年経って、何かを感じて、伝えたいと思う力ってすごいなと思いました。何かやりたいと思って、「この街の子ども」が始まりました。
■映画館での上映が始まって・・・
映画のほとんどが夜のシーンなので、(映画館は、真っ暗な中で見るので、)より溶け込んでいける、一緒に歩いているような気持ちになれるのではないかと思います。
神戸を11月スタートさせて、12月4日から京都シネマで、来年1月15日から東京で上映されます。映画は、テレビでカットせざるをえなかった10分も入っている完全版ですので、テレビをご覧いただいた方もぜひご覧ください。
