2011年11月08日

11月被災した女性たちが主体的に復興に関われる環境作り

1111_masai.JPG11月のゲスト NPO法人ウィメンズネット・こうべ代表理事の正井礼子さん


■ウィメンズネット・こうべ
1991年から男女平等や女性の人権を守る活動をしていました。日常的には、夫からの暴力被害を受けた女性の支援や緊急保護をしていました。震災の前年、一軒の家を借りて、「女たちの家」とし、女性たちが本音で語り合って、元気になれるスペースを開設しました。これからいろんな活動を始めようという時に、震災があり、そのあたりは土地ごと流されてしまいました。家を失ったあとは、六畳一間を借り、女性支援ネットワークを立ち上げ、女性のための電話相談、乳幼児を連れたお母さんや子どもの支援を始めました。結果として、震災で活動が広がりました。

■雑魚寝の避難所で
避難所では、着替えの場所がないことや、子どもの夜泣きに悩む女性が居づらさを感じ、半壊の自宅に戻る人もいました。男性の目を気にして、トイレに行くのを我慢し、水分摂取を控えために、体調を崩した女性も多かったようです。(私たちも東日本の震災を受けて知ったのですが、)「トイレは男女離して作る」という国際基準あったそうです。

■大変なとき、家庭内のもめごとなんて・・・
暴力問題も表には出にくかったものの存在していました。
妊娠8ヶ月、彼と同棲中に被災し、家を失い、彼の実家に居候していた女性です。「子どもなんかいるもんか」と彼から殴る蹴るの暴行を受けていると相談を受けました。「彼の家族はあなたを守ってくれないの?」と尋ねましたが、「頼むから、息子を怒らせないでくれと言われるばかりで、誰も自分を守ってくれない」というものでした。
家のローンがまだあるのに家がなくなってしまって、夫の取引先もつぶれて、毎晩、子どもに暴力をふるう、という相談もありました。
「みんな被災している大変な時なのに、家庭内のつまらないもめごとを相談する私はわがままですか?」とみんな言います。

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■東日本の被災地へ
神戸との違いとして、女性に対する暴力や性被害に対する対策は進んでいました。女性の自衛官や警官が全国から派遣されていましたし、女性の支援団体も予防カードを配ったり、張り紙をしていたり、配慮がされていました。

■そこでしか生きられない、だから我慢する
女性だけで語り合う女性支援セミナーを2ヶ月に1回ぐらいしていました。
そこで、こんな話をした人がいました。阪神・淡路大震災のとき、仮設は辺鄙なところに作られました。小さな子どもがいる人は、なかなか買い物に行けませんでした。代わりにお買い物に行ってくれるおじさんがいたそうです。そのおじさんに感謝して、夕食に招いたときに、被害にあったそうです。
その話を聞き、「その時すぐに、警察に行けばよかったのに」と言った方がいました。その言葉に対し、「そこでしか生きていけない時に、誰にそれを語れと言うのですか?」と言ったのが心に残りました。
今度、災害が起こったときに、そういうことが決して起こらないように、伝えていかなければならないと思いました。

■避難所の運営にも女性を
阪神・淡路大震災のときから、変わっていない点もありました。女性はきちんと意見を持っていて、参画していけるのに避難所の運営にあまりは入れていないことです。女性が運営に関わることで、生理用品や下着の配布一つとっても配慮が出てきます。男女半々のリーダーを置いた避難所では、運営がうまくいき、表情が明るかったといいます。男女それぞれの目線をいかした運営をしていくことが大切です。

■岩手県の復興会議
18人のメンバー、1回目の会議は女性ゼロでした。女性たちが声を上げ、2回目には、婦人団体の代表と栄養士会の会長が入られました。沿岸部が大きな被害を受けました。岩手県漁協の女性部は8300人おられます。北海道に次いで2位の多さです。その人たちが1人も会議に入らないというのは、どういうことだろうと思いました。女性たちの多くが魚の加工場で働いていています。加工場が流され、仕事がないという生活の不安を抱えておられます。そういうことも反映される復興会議でなければならないと思うのです。

■東日本大震災女性ネットワーク
私も、世話人をしています。活動で出たことをまとめて、毎月、国に提言をしていくことにしています。たとえば、復興の仕事が、がれき処理など力仕事が多いので、女性の雇用喪失も考えて欲しいです。市町村レベルで復興会議が行われていますが、なかなかそこに女性が入っていけないし、女性の意見が反映されにくい現状があります。そのような会議には、女性を30%以上入れてほしい、女性復興会議も立ち上げてほしいということです。



■女性の雇用の喪失
大きく取り上げられなかったものの、阪神・淡路大震災では、10万人の方が解雇されました。女性は補助労働だという考えもあり、その10万人の多くはパートなど非正規雇用の方です。雇用の喪失は、シングルの方はすごく大変です。

■安心して住める住まいを
災害時に女性や子どもはうまくいかないことやストレスのはけ口にされがちです。女性は出て行く先がないと、我慢されます。すでに8月に仮設で、DVによる殺人事件が起こっています。困ったときに、SOSをきちんと出せて、その人が安心して住めるすまいを提供できるような環境をつくることが大切だと思います。

■ハンドマッサージ隊になって
保健師、助産師とともに、被災地に入りました。「何かお困りですか?」と聞いても見ず知らずの私たちに話してはもらえませんでした。そこで、持っていたハンドクリームを使って、ハンドマッサージ隊になりました。とても好評で、たくさんの人が寄ってきてくれました。

■ハンドマッサージをしながら
1人10分程度ですが、いろいろな話をしました。ごつごつの手の方がおられたので、「すごく頑張って働いてこられたのですね」と言ったら、「私は3、40年ずっと魚を加工していた」とおっしゃっていた方の手は、包丁の形や魚を握る形に変形していました。ご主人と一緒に船にのって魚を引き上げていたという80代の女性もいました。沿岸部の女性たちはとてもたくましかったです。足湯と同じように、肌にふれることで心が開かれるようでした。
「ハンドマッサージは、誰にでもできます。皆さんもお互いにしてくださいね」と、マッサージクリームを渡しました。
「何がほしいですか?」と聞くと、仕事や車と答えた方が大勢いらっしゃいました。その声を聞いた友人が、廃車にする車を手配して、シェアカーとして被災地に提供するということもありました。

■忘れないでいてほしい
私は、同じところへ行って、同じ人たちと交流をしていこうと思いました。帰るときに、「本当に何もできないのが申し訳ないと思う」と私が言うと、「神戸のときは遠くて行けなかった。でも、今回は、こうして来てくれることが嬉しい。勇気づけられる」と言っていただけました。物資を送ってくれることも嬉しいけれど、「どうしてる?」と電話をかけてくれること、忘れないでいてくれることが嬉しいと言っていました。お友達になっていくことがいいかなと思います。
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2011年11月01日

10月神戸の震災から始まった仮設での支援活動、そこでの知見を東北に拾っていただく。

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10月のゲストは石東直子さん
阪神淡路大震災の後、神戸、芦屋、姫路の仮設住宅の暮らしサポートを16年間続けてきたグループのリーダー。都市プランナー。

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■都市プランナー
ニュータウン開発、再開発、高齢者の住まいや暮らし、しあわせの村の構想・設計など時代とともに様々な仕事に携わっていました。

■生まれも育ちも生粋の長田っ子
阪神・淡路大震災の時は、千里ニュータウンに住んでいました。神戸に母親が1人で住んでいたので、すぐ神戸に駆けつけようと思いました。公共交通機関で行けるのは、阪急の西宮北口まででした。偶然にも、1月17日の朝、西宮市の職員と仕事の打ち合わせの約束をしていたので、西宮市役所へ行きました。

■西宮市役所で
震災から一週間ぐらいたって、仮設住宅の支援が始まりました。仮設住宅の応募用紙を配布する手伝いをしました。用紙を取りに来られる方は、かなりのご高齢の方や一人暮らしの高齢者が多かったです。「仮設住宅にあたっても、地域から離れたら、一人で生活せんわ」と言った方がおられ、それが脳裏に焼きつきました。母が一人で神戸に住んでいましたので、母もどうするのだろうかと思いをめぐらせました。
神戸まで交通がつながるようになって、神戸の日参が始まりました。

■元気な男がつくる建物
高度経済成長期に弱者の視点や暮らしの視点はありませんでした。当時の仕事場は、男社会でしたので、奥さんに暮らしをまかせている元気な男が元気な絵を描いていました。
「これは不便だと思う」と女性の視点を私が言うと「主婦の視点はプロの視点と違う」と馬鹿にされていました。1970年前後に建った住宅は、エレベータもありません。蹴上げも高く作ってあります。元気な人が住むという考え方で、高齢者とか弱者の視点が全くなかったわけです。しあわせの村は、障害のあるなしに関わらず一緒に集える空間、施設ということで開発されました。

■コミュニティの寸断
今まで長年暮らしていたコミュニティからバラバラになってしまったら、生きていかれへん、ということです。隣の人がいたから、近隣でなじんだ環境があったから、生きてこれた一人暮らしの人がたくさんいました。すぐそばに何十年もの知り合いがいる、お昼過ぎまで窓を開けなかったら、「どうしたん?」と窓を開けてくれる人がいる、買い物に行ったら、そこのお店の方とお話ができる、そういう環境があったからこそ高齢でも一人で生きていけたんです。何気ない人間関係、優しさ、目配り、気配りがあって、生きていけるんだと思います。
いくらボランティアが訪ねてくれると言っても、一人で仮設住宅で生きていくことはできないと思います。たくさん食べ物を持ってきてもらっても、心はそれではすまないと思います。

■ふえる孤独死
仮設で2〜4年、やっと隣の人とお話ができるようになったのに、復興公営住宅に引っ越すと、また一人暮らしからはじめなければいけないのです。さらに、公営住宅は、鉄の扉を一つ閉めれば、外部と全く遮断された孤立した状況になります。仮設住宅で、4年半くらいで、約250人の方が孤独死になりました。公営住宅になると、もっと増えるのではないかと思いました。

■ふれあって住める住宅
震災の秋に、「コレクティブハウジング事業推進応援団」というボランタリーを立ち上げ、活動をしました。神戸市の職員に、提案しました。自分の家の面積の10%を出しあって、共同のリビングと、少し広めのキッチンをつくりました。キャッチフレーズは、「たまにはみんなで集まってご飯を食べよう、一人になりたければ自分のおうちに入ろう」でした。全国で初めて、公営のコレクティブハウジングが神戸から発信できました。兵庫県営住宅を含め10地区できました。現在では、長崎や埼玉、北海道へも展開されています。

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■暮らしサポート隊
3月11日の震災があって、「すぐにとんで行きたい」と思いましたが、まわりに止められました。というのも、2004年に手術をして、体力もおち、感染症にかかりやすい状況だったからです。現地へ行きたかったのですが、行けない悔しさがありました。
震災の数日後、関西へも被災地から避難されて来られる人がいることを知り、神戸でできる活動「暮らしサポート隊」を立ち上げました。避難されて来られる方の心の癒し、グリーフケアを長い時間をかけて続けていこうと思いました。ゴールデンウイーク、現地に行く仲間に「暮らしサポート隊」のパンフレットを託しました。

■仮設住宅のサポートを教えてほしい
パンフレットを見た生活習慣改善センターの理事長さんから、突然電話がありました。経験がないので、話をしに来てほしいと言われました。自分の体力がおちて、気力に体力がついてこない悔しさを味わいました。元気人間には気づかない気付きがありました。

■文化の違い
東北の文化は、関西の文化とは全く違う、言わば外国の文化です。東北の文化を大切にしながら、サポートすることを心がけています。被災地でお話をするとき、最初に、「私は関西の文化しか知りません。私の話は、関西の話です。みなさんに合うものだけを耳に残してください」と伝えます。

■東北の避難所生活、仮設住宅
阪神・淡路大震災の教訓を受け、多くの仮設住宅が、今までのコミュニティを崩すことなく、集落単位、コミュニティ単位で入居できるように配慮しました。また、限界集落は、仮設で高齢者ばかりになると困るので、弱者の割合を全体の3割を超えないように意識的に入居させる地域もありました。
避難所生活が長く、高齢者は足腰が立たなくなりました。今は、元気に足腰を回復することを目標にしています。ラジオ体操をする、1日1000歩あるくようにお願いしたいと思います。

■若い世代を育てることも私の使命
阪神・淡路大震災では、50代〜70代くらいの人たちが多く活躍し、若い層があまり育っていません。その反省をいかして、「暮らしサポート隊」には、30代や大学生もメンバーにいます。若い世代を育てていくことも私の任務、一緒に被災地にも行っています。
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9月神戸での経験を東北に繋ぐ「神戸復興塾3.11支援集会」

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9月のゲスト 小森星児さん


■阪神・淡路大震災のとき
東灘のJRと阪急の間の地域、つぶれたのは私の住んでいたマンションだけという地域にいました。地理学者でありながら、恥ずかしいことに、「神戸でこれだけ揺れるなら、東京は海の底だろう」と思いました。歴史的に言うと、神戸の震災の記録は少ないです。地質的に言うと、起こる場所であったことは確かですが、切実感がなかったです。

■さまざまなボランティア活動
自分の家が、なくなったので、マンションの再建組合の組長に押されて、皆さんを引っ張っていかなければなりませんでした。
当時、姫路短期大学の学長もしていました。学生を連れ、避難所や仮設住宅でお世話をする仕事もありました。
加えて、住宅政策が専門なので、「いかに安全な住宅を作るか」ということは職業上でも大切な問題であり、個々のご相談にも応じてきました。

■反省から学問は進歩する
専門家として当然やるべきことだと思います。自分自身の勉強にもなります。まさか「次に大震災が待っている」とは思ってもいなかったので、その場限りのものかもしれませんが、長い間お世話になった兵庫、神戸で力を貸すのは当然だと思っていました。
同じ課題を抱えて、支援活動に参加されています。一緒に活動をすることは、励ましにもなりました。
「自分たちの考え方が間違っていた」、「もっといい提案ができたのではないか」という反省に立って、学問は進歩するものだと思います。

■神戸復興塾での取り組み
専門家の参加の仕方にはいくつもあると思います。一つは、政府や行政のブレーンとなって、復興をお手伝いするという方法があります。もう一つは、現場に入って、現場の苦労を自分の問題として捉え、それについて助言したり、新しい試みを紹介するという方法があります。仕事上、私は、両方にまたがっていました。実際に現場で、犠牲になった方や被害を受けられた方々から、知恵やエネルギーを得たことはありがたいことであったと思っています。

■神戸アイウォーク
アイウォークは、募金イベントとして始めました。メンバーが、アメリカでエイズウォークに参加したのがヒントになりました。震災のあと、多くの民間団体ができましたが、多かれ少なかれ資金不足で困っていました。寄付を集める方法の一つとして、被災地の現場を歩いていただくのが良いのではないかということで始まりました。
アメリカの場合は、10kmほどの間、交差点が全くありません。神戸の場合、鷹取から三宮まで歩くと、70数箇所も交差点があり、誘導員を置かなければなりません。明石での花火の事故もあり、中学生に誘導をお願いするということについても責任が重すぎる、とはばかられるようになりました。アイウォークは、残念ながら3年で打ち切らざるをえませんでした。


■東日本大震災の現場で
5月の末に4〜5日間、宮城県の三陸海岸に行きました。また、7月には1週間ほど、岩手県盛岡をベースに、被災地へ通ったり、被災者支援組織の立ち上げに協力するために行きました。

■方向が定まらない
神戸の場合、目標ははっきりしていました。「復旧は、国が責任を持ってやる。復興は、地元が中心になってやる。」やるべきことも明確で、民間で期待される役割についても、提案してやっていくことができました。
東北の場合は、地域も広く、単なる普及では間に合わないということは明らかです。心が痛む話ですが、災害がなくても、10年、20年後には厳しい状況に置かれる。災害はそれを加速させました。単なる復旧で、元に戻っても意味がなく、何か新しいものを見つけなければならないのですが、いまだに方向が定まっていません。

■3.11被災者支援の会
1つは、被災地へ行って支援をする、神戸の経験を現地で洗い直し、使えるものを準備するという活動です。
もう1つは、避難してこられた方を支援するという、神戸でできる活動です。現在でもいくつもの活動が地道ですが、続いています。いつになったら帰れるかという見通しが立ちにくい状況です。
特に福島の場合は、いつ帰れるか分からないという事情の上に、働き手は福島に残り、お年寄りや子どもたちがこちらに来ているなど、さまざまな形態での避難があります。「神戸で新しい仕事をしませんか」という提案をしても、なかなか反応がありません。
これからの支援のあり方についても難しいところです。

■支援の会は、ボランティアのフリーマーケット
集まってこられた方には、黒板に仕分けして、発表や報告したいことを書いていただきます。現地での支援、神戸での支援、子どもの教育の支援、集まってくる方も多彩です。ボランティアは、年齢不問です。社会人もいれば、引退された方も、行政やマスコミ関係の方もいます。いろんな立場から助言をしたり、自身の経験を語ることで、活動の幅が広がることを期待しています。

■避難して来られた方への支援
行政の受け入れ体勢も十分でなかったので、こちらへ避難してきた方が困っていました。できるだけ神戸、阪神に避難してこられた方を、十分に受け入れたいと思いました。
「なぜこちらに避難して来られたのですか?」と伺うと、「この地域は、阪神大震災の経験があるから、私達の立場も理解してもらえると思った」とおっしゃる方もいます。

■自分事として考える
私たちが、東日本の被災地を支援するのは、困っているからいくというだけではありません。日本のような災害大国では、いつ次の大災害が来るか分かりません。今、ここで学ぶことは、決して他人のためだけではないのです。我々や次の世代のために役に立ちます。そのようなことを十分考えて、参加することは大切だと思います。
例えば、津波に備えて高台に家を建てるというのは、東北だけの問題ではありません。和歌山でも、高知でも、兵庫でも同じ問題を抱えているのです。現地で学ぶということは、同時に、今の我々のために活かすことでもあります。のんびりしている場合ではないということを若い人たちに伝えたいです。
posted by FMYY at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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