2011年12月28日

2012年1月 「高校生、災害と向き合う−舞子高等学校環境防災科の10年」を諏訪清二さんが語る!

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今回のゲスト:舞子高校環境防災科科長の諏訪清二さん


■全国唯一の環境防災科
環境防災科の授業は、3分の2が普通科目の勉強、3分の1が専門科目の勉強です。商業や農業と同じ枠組みです。いまだに、防災科としては全国唯一です。全国にこんな学科が広がってほしいのですが、「自分だけは大丈夫だ」「被害に遭わない」と思っていることが影響しているのかもしれません。防災が広がらないことと似ています。

■環境防災科で学ぶこと
生徒は、自然環境から災害のメカニズムも勉強します。災害は自然環境の中に台風や受け止める社会の弱さにも関係してくるので、社会のあり方についても考えます。ボランティアや社会福祉、耐震の大切さ、災害の法律や中長期支援についても勉強していきます。(行けるところであれば、)ボランティアにも行かしていただいて活動させてもらっています。

■ボランティア
ボランティアは、「泥かきしてほしい」「家の中の片づけをしてほしい」というニーズに対して愚直にやるという気持ちが大事だと思っています。「単位をとるためにボランティアに行く」というのは、きっかけとしてはあってもいいと思いますが、気持ちとしてはだめです。
ボランティア活動をしていると、現地の人からいろんな話を聞かせてもらいます。当たり前のことをやっているのに、ものすごく感謝され、人の優しさに触れることもあります。被災された地域のお年寄りの寂しさを感じることもあります。
いろんなことを考え、「次の勉強に活かさなければ」という気持ちになるという意味では、変わってくれている人が多いです。

■勉強の材料は防災に関わってきた方の体験や教訓
環境防災科は、現場主義です。(防災科の生徒が、しっかり発表できるのは、)機会があるからです。体験を伝えたいという大きな気持ちがあるから話せるのですが、生徒は慣れて話しています。どんな若い子も、体験をして語る場があれば、きっと語れると思います。今の日本の学校はそのような場を奪っています。
防災は、学校設定科目です。文部省の学習指導要領には載っていません。学校独自でプリントを作ったり、パンフレットや新聞、本の切抜きを教材化することで授業をします。10年間、予習前提の授業はして来なかったです。
残念なことに、災害がたくさん起きているので、防災科である以上、災害と向きあうことになります。災害に関わってきたNPOや行政や専門の人などいろんな話を聞き、災害と向き合うことを学びます。勉強の材料は、常に社会や災害の最先端の人たちの体験や教訓です。

■市民のリーダーを目指して
生徒の進路は、大学進学が7割、公務員就職が2割です。すでに30人くらいが消防に入っています。
消防学校で1泊2日の体験学習もしています。阪神・淡路大震災の体験をもつ消防士の「なぜ防災を広めたいか」という、本気の気持ちに出会え、モチベーションをあげることができます。
進学では、総合政策や人間科学など学際的に学べる学部に進む子もいます。教育、外国語、国際関係、法律、心理などに進む生徒もおり、さまざまです。
核としては、「自分の身を守るためにどう備えるか」「直後には人々をどう支援していくか」を勉強しますが、広い意味で言えば、社会に生きていることそのものが、どこかで防災とつながっています。
「幼稚園の先生になって、幼稚園で防災教育をしたい」「外国語の学部に行って、途上国で防災を教えたい」など、広いつながりを持ってくれています。専門家を目指すより、市民のリーダーになって欲しいと言っています。

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■「高校生、災害と向き合う」
5月に生徒と一緒に東松島市へボランティアに行きました。自分の中にもいろんな思いや課題があり、本にまとめました。

■夜のミーティングの意味
ボランティア活動が終わると、夜にはミーティングをします。
1つは、うまくいったこと、いかなかったことを出し合って、翌日より良い活動をしようという意味です。
もう1つは、あれだけの被災地に入ると、子どももへこみます。見渡す限りがれきの前に立つと、自分はちっぽけだと思います。共有することで、「みんな同じ思いなんだ、自分だけじゃない」という安心感を持つことができます。「ちっぽけだけど、ちっぽけが集まれば仕事になるんじゃないか」と、気持ちを楽にすることができます。

■「明日はもっと頑張りたい」
夜のミーティングで、生徒が言いました。「今日も頑張ったけど、明日も頑張る」という、純粋な気持ちだったのだろうと思います。
「被災程度のひどいところに行くから頑張りたい」と言う言い方をボランティアはよくします。被災程度の重さではなく、被災者はみんな「自分のことも見て欲しい、助けてほしい」と思っています。酷いところ、目立つところに行きたがるのは、ボランティアの悪いところです。
生徒には、「『大変な場所なので頑張りたい』という言い方はやめなさい。明日100%にするなら、今日は50%なのか? 今日の被災者は予行演習なのか?」と言いました。
善意でやっていることの中に、被災者を傷つけていることはよくあります。そういうことに気づいて欲しいのです。

■骨折した生徒、腰痛の生徒、じん帯を伸ばした生徒も・・・
私は、役に立つと思って、動けない生徒も現地へ連れて行きました。寝泊りしたのが松島町の廃校になった小学校の体育館でした。その小学校の教室に30人が避難していました。
動けない生徒は学校に残り、朝から晩まで、避難しているおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたり、子どもと遊んだりしていました。ただ黙ってそばにいて、話を聞くことも、立派なボランティアです。生徒たちはいろんな話を聞いてきていました。

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■「神戸」ということに独特の感覚を持ってくださっている
体育館を借りることができたのは、松島町の副町長さんが手配をしてくれたからでした。よく聞くと、阪神・淡路大震災の時に、カトリックたかとり教会に来て、ボランティアをしていたそうです。その時に、神戸の人にお世話になったという気持ちを持っていて、手厚く受け入れてくださいました。

■4週間、同じところで活動をする
環境防災科の3学年がそれぞれ1週間ずつ、そして、普通科の生徒が1週間、の計4週間同じ地域で活動をしました。活動のときは、高校の体操服を着せます。
1週間経ち、2週間経つと、地元の人が、「ご苦労さん」と声をかけてくれるようになります。仮設に工事に来ている関東の建築のおじさんたちも「おっ、頑張れよ!」と声をかけてくれ、顔なじみが増えていきます。

■「わしの神戸の孫や」
7月と8月に1度ずつ(違う地域で活動の合間に)「もう一度5月に行った地域に、顔だけ見せに行こう」と、行ったことがありました。
ある女子生徒は、おじいちゃんと二人で町中を歩いたそうです。すれ違う知り合いに、おじいちゃんが「この子が、わしの神戸の孫や」と紹介してくれたそうで、すごく嬉しかったそうです。もう一度行くことで、「忘れていません」というメッセージになるかと思いました。
ただ、夏に行く前に、余震があると電話をしたり、手紙を書いたり、何度もやり取りをしていた生徒もいました。生徒のほうが一枚うわてでした。

■2つの継続性
一回行って帰ってきて、「俺は、ボランティアしたんや」というようなボランティアにはなってほしくありません。被災地から見れば、「自分たちの地域にボランティアがやってきて、すぐにいなくなって、忘れ去られるのは嫌だ」という気持ちも、よく分かります。
1つの被災地にこだわり続ける継続性と、一生の中で防災・災害・ボランティアに関わり続ける継続性、どちらも大切です。

■高校生の武器
高校生は私たち大人と比べると、しゃべりやすいところがあるかもしれません。子どもと遊ぶのには体力がいるので、高校生にはもってこいです。純真無垢に入っていって、愚直に働くことで、信頼を得られることは大きいと思います。初めて会った高校生を孫みたいなイメージをもってくれるのは大きいと思います。

■これからもつながり続ける
外から来た、よそ者の自分たちに、一番つらい体験を語っていただいた時、私たちは涙を流すだけで感想なんていえないと思います。そのような時に、「ありがとうございます」と言葉を残すことは大切だと思います。
忘れられていないということや、神戸の人にあなたの体験をつなぐということ、「あなたは一人じゃないですよ」というメッセージを伝えることも大切だと思います。
現地へ行く、神戸に来ていただく活動も続けていきますが、生徒がよくやっている手紙を出す、電話をするというつながりも続けていきたいと思います。
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2011年12月03日

3月11日以降5ヶ月に渡る福島での経験から、12月今こそ神戸の知恵が生きると語る長谷部治さんの提議。

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今月のゲスト:社会福祉法人神戸市社会福祉協議会総務部経営企画課主事 長谷部治さん


■長田に来たのは1995年の2月
阪神・淡路大震災を鹿児島で知り、ボランティアで長田に来ました。大学3年の終わりでした。4年になり大学には戻りましたが、大学は休みも長いので、かなりの時間を長田で過ごしました。翌年、長田の社会福祉協議会に入社し、ボランティアセンターで長く勤めさせていただきました。

■東京での臨時会議
東日本大震災の翌日、東京での臨時会議に行きました。災害ボランティア活動支援プロジェクト会議という全国組織の会議です。災害ボランティアセンターの運営や支援体制について話し合いました。
現地の様子は全く分からない状態でした。全国から人を集めて、ボランティアセンターの運営を手伝うことや、お金のことなどを伝えに行くことになりました。3月12日の夜に、私は、福島と宮城に伝えに行く担当に決まりました。道中で、福島に入れたという委員がいたので、福島は任せることにして、宮城に向いました。
3月13日の未明から2日間、現地の様子を見させていただきました。

■ガソリンがない
宮城県社協・仙台社協の車を緊急車両に指定してもらいました。高速道路上のガソリンスタンドは生きていたので、給油でき、被災エリアの市町村に行くことができました。(正直、それまでは、燃費のいい車の取り合いでした。)

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■2つの大震災の違い
語弊があるかもしれませんが、仙台の町中に入ったときに、「意外と大したことないな」と思いました。自販機やビルもほとんど倒れていなかったからです。
一方で、仙台東部道路という盛土構造の道路をくぐり、海側に出た瞬間に、何もかも流されているという状況でした。「局地的」という表現そのもので、津波の来たエリアが局地的にやられ、その他のエリアは、阪神・淡路の時に比べると揺れの被害が少なかったという印象がありました。
また、「けが人があまりにも少ない」と日赤の医療チームがよく言っていました。全く大丈夫か、お亡くなりになっているかの両極端で、死亡判定をするのと、健康薬の対応をするのがほとんどだったようです。

■過去の災害の経験が通用しない
福島県内のボランティアセンターへ人を送り込むための調整をしていました。初期は、「本当にそこに行って大丈夫なのか?」という議論も大きかったです。
南相馬市の原町区にボランティアセンターを設立したものの、政府の区画では、屋内退避エリアでした。「屋内退避エリアでのボランティア活動をどう考えるか」「テントは屋内か屋外か」など過去の災害の経験が通用しないことも多くありました。

■ボランティアの安全は、被災者の安心にもつながる
過去の経験が通用しない中で、信念を持って貫いたのは、「被災者の方たちは、ボランティアが自分の家や町に来て、怪我をしたり、お亡くなりになって喜ぶ人はいない」ということです。
過去、私が関わった災害ボランティアセンターで3名の方がお亡くなりになっています。4人目を出さないということは、私にとっての命題でした。
この夏は、非常に暑かったのですが断固として、長袖長ズボンは徹底させました。「あなたが安全に帰ってくることが、被災者の人の安心にもつながる」ということをきちんと伝えていきました。
並行して、熱中症対策も必要でした。水分補給のためのスポーツドリンクの手配も私の仕事でした。
特に、計画停電などの影響もあってか、関東勢の当事者意識が極めて強かったです。

■阪神・淡路から16年が経ち、法律も制度も変わった
介護保険の始まり、障害者自立支援法、個人情報保護法などができ、保護条例が各地に設置されていることは、支援活動に良くも悪くも大きく影響していました。
近年は、ケアマネージャーやホームヘルパーが個別に関わっているので、阪神・淡路の時ほど、孤独死リスクは高くないと思っています。福祉に関わる仕事をしている人や家族が多くなったことで、市民の目が変わってきているということもあります。
個人情報保護法には、緊急時の除外規定もあります。犠牲者の一覧がテロップで流れるなどがそうです。しかし、緊急時はいつまでかということは、市町村の条例によって違っていたり、決められていなかったりします。
仮設住宅の入居者名簿が出てこない、避難所の住民の構成が分からないという「情報が全く出てこない」という現象もよくありました。

■市町村をまたいだ避難の難しさ
福島に関して言えば、元の市町村から離れて避難しているケースがよくあります。
飯舘村の村民が福島市に避難している時に、保護条例は、飯舘村と福島市どちらに起因するのか、という問題が生じてきます。
また、相馬市では、避難所だけでなく仮設にも夕食を配っていました。飯舘村の人で、相馬市の仮設に入った人は、夕食があたるけれど、福島市の仮設に入った人は夕食があたらないという問題もありました。

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■福島の34か所の災害ボランティアセンター
発災直後3日以内にボランティアセンターを作ることが、私達の目標です。しかし、今回は6月にも新規のボランティアセンターが出来たところもあります。飯舘村は、全壊、半壊ゼロでした。ところが、空間放射線量が高く、二重避難を余儀なくされ、新たに避難した地域でボランティアセンターが開設されたためです。
福島県下、59市町村に34か所の災害ボランティアセンターが開設されていました。岩手宮城あわせた37エリアのボランティアセンターと同じくらいのボランティアセンターが開設されています。

■今後の支援、今こそ阪神・淡路の経験を・・・
携帯電話やインターネットが普及し、人の生活も変化しました。ボランティアセンターの支援としては、2004年の中越地震、2006年の中越沖地震を参考にすべきことが沢山あります。
応急仮設住宅への避難というと、プレハブの仮設住宅をイメージしがちです。しかし、東日本大震災の被災地では、みなし仮設(民間のアパートやマンションを県や市が借り上げ、仮設住宅として住むことができる住宅)の数はプレハブ住宅のおよそ倍です。通常の地域に住んでいるという実態からすると、災害復興住宅のときと同じ支援対策が必要なのです。
これだけ大規模な復興住宅の支援活動を経験しているまちは神戸だけです。住民を地域につなぐ活動をしていかないといけないと思います。
社協は、阪神・淡路の時、災害ボランティアコーディネーションというより、仮設支援や復興住宅支援を頑張ってきた組織だと思っています。今後、どういう課題や問題が出てくるかということが一番よく分かっているのは神戸のワーカーだと思っています。

■東北から学ぶこと
「阪神・淡路の恩返しをせなあかん」という思いがあります。お返しも大事ですが、一歩違う視点で、東北から学ぶことも必要です。それだけ法律や社会情景も変わっています。今後の災害が神戸で起きた時のことを考えると、東北の取り組みから知ることや神戸に返さなければいけないことも多いのではないかと思っています。

■共同募金の赤い羽根
阪神・淡路のときに、ボランティアセンターをするお金がなかった経験から、2004年に変更され、現在では、共同募金の3%は災害ボランティアセンターのために毎年プールされています。
posted by FMYY at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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