10月のゲストは石東直子さん
阪神淡路大震災の後、神戸、芦屋、姫路の仮設住宅の暮らしサポートを16年間続けてきたグループのリーダー。都市プランナー。
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■都市プランナー
ニュータウン開発、再開発、高齢者の住まいや暮らし、しあわせの村の構想・設計など時代とともに様々な仕事に携わっていました。
■生まれも育ちも生粋の長田っ子
阪神・淡路大震災の時は、千里ニュータウンに住んでいました。神戸に母親が1人で住んでいたので、すぐ神戸に駆けつけようと思いました。公共交通機関で行けるのは、阪急の西宮北口まででした。偶然にも、1月17日の朝、西宮市の職員と仕事の打ち合わせの約束をしていたので、西宮市役所へ行きました。
■西宮市役所で
震災から一週間ぐらいたって、仮設住宅の支援が始まりました。仮設住宅の応募用紙を配布する手伝いをしました。用紙を取りに来られる方は、かなりのご高齢の方や一人暮らしの高齢者が多かったです。「仮設住宅にあたっても、地域から離れたら、一人で生活せんわ」と言った方がおられ、それが脳裏に焼きつきました。母が一人で神戸に住んでいましたので、母もどうするのだろうかと思いをめぐらせました。
神戸まで交通がつながるようになって、神戸の日参が始まりました。
■元気な男がつくる建物
高度経済成長期に弱者の視点や暮らしの視点はありませんでした。当時の仕事場は、男社会でしたので、奥さんに暮らしをまかせている元気な男が元気な絵を描いていました。
「これは不便だと思う」と女性の視点を私が言うと「主婦の視点はプロの視点と違う」と馬鹿にされていました。1970年前後に建った住宅は、エレベータもありません。蹴上げも高く作ってあります。元気な人が住むという考え方で、高齢者とか弱者の視点が全くなかったわけです。しあわせの村は、障害のあるなしに関わらず一緒に集える空間、施設ということで開発されました。
■コミュニティの寸断
今まで長年暮らしていたコミュニティからバラバラになってしまったら、生きていかれへん、ということです。隣の人がいたから、近隣でなじんだ環境があったから、生きてこれた一人暮らしの人がたくさんいました。すぐそばに何十年もの知り合いがいる、お昼過ぎまで窓を開けなかったら、「どうしたん?」と窓を開けてくれる人がいる、買い物に行ったら、そこのお店の方とお話ができる、そういう環境があったからこそ高齢でも一人で生きていけたんです。何気ない人間関係、優しさ、目配り、気配りがあって、生きていけるんだと思います。
いくらボランティアが訪ねてくれると言っても、一人で仮設住宅で生きていくことはできないと思います。たくさん食べ物を持ってきてもらっても、心はそれではすまないと思います。
■ふえる孤独死
仮設で2〜4年、やっと隣の人とお話ができるようになったのに、復興公営住宅に引っ越すと、また一人暮らしからはじめなければいけないのです。さらに、公営住宅は、鉄の扉を一つ閉めれば、外部と全く遮断された孤立した状況になります。仮設住宅で、4年半くらいで、約250人の方が孤独死になりました。公営住宅になると、もっと増えるのではないかと思いました。
■ふれあって住める住宅
震災の秋に、「コレクティブハウジング事業推進応援団」というボランタリーを立ち上げ、活動をしました。神戸市の職員に、提案しました。自分の家の面積の10%を出しあって、共同のリビングと、少し広めのキッチンをつくりました。キャッチフレーズは、「たまにはみんなで集まってご飯を食べよう、一人になりたければ自分のおうちに入ろう」でした。全国で初めて、公営のコレクティブハウジングが神戸から発信できました。兵庫県営住宅を含め10地区できました。現在では、長崎や埼玉、北海道へも展開されています。
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■暮らしサポート隊
3月11日の震災があって、「すぐにとんで行きたい」と思いましたが、まわりに止められました。というのも、2004年に手術をして、体力もおち、感染症にかかりやすい状況だったからです。現地へ行きたかったのですが、行けない悔しさがありました。
震災の数日後、関西へも被災地から避難されて来られる人がいることを知り、神戸でできる活動「暮らしサポート隊」を立ち上げました。避難されて来られる方の心の癒し、グリーフケアを長い時間をかけて続けていこうと思いました。ゴールデンウイーク、現地に行く仲間に「暮らしサポート隊」のパンフレットを託しました。
■仮設住宅のサポートを教えてほしい
パンフレットを見た生活習慣改善センターの理事長さんから、突然電話がありました。経験がないので、話をしに来てほしいと言われました。自分の体力がおちて、気力に体力がついてこない悔しさを味わいました。元気人間には気づかない気付きがありました。
■文化の違い
東北の文化は、関西の文化とは全く違う、言わば外国の文化です。東北の文化を大切にしながら、サポートすることを心がけています。被災地でお話をするとき、最初に、「私は関西の文化しか知りません。私の話は、関西の話です。みなさんに合うものだけを耳に残してください」と伝えます。
■東北の避難所生活、仮設住宅
阪神・淡路大震災の教訓を受け、多くの仮設住宅が、今までのコミュニティを崩すことなく、集落単位、コミュニティ単位で入居できるように配慮しました。また、限界集落は、仮設で高齢者ばかりになると困るので、弱者の割合を全体の3割を超えないように意識的に入居させる地域もありました。
避難所生活が長く、高齢者は足腰が立たなくなりました。今は、元気に足腰を回復することを目標にしています。ラジオ体操をする、1日1000歩あるくようにお願いしたいと思います。
■若い世代を育てることも私の使命
阪神・淡路大震災では、50代〜70代くらいの人たちが多く活躍し、若い層があまり育っていません。その反省をいかして、「暮らしサポート隊」には、30代や大学生もメンバーにいます。若い世代を育てていくことも私の任務、一緒に被災地にも行っています。