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■ウィメンズネット・こうべ
1991年から男女平等や女性の人権を守る活動をしていました。日常的には、夫からの暴力被害を受けた女性の支援や緊急保護をしていました。震災の前年、一軒の家を借りて、「女たちの家」とし、女性たちが本音で語り合って、元気になれるスペースを開設しました。これからいろんな活動を始めようという時に、震災があり、そのあたりは土地ごと流されてしまいました。家を失ったあとは、六畳一間を借り、女性支援ネットワークを立ち上げ、女性のための電話相談、乳幼児を連れたお母さんや子どもの支援を始めました。結果として、震災で活動が広がりました。
■雑魚寝の避難所で
避難所では、着替えの場所がないことや、子どもの夜泣きに悩む女性が居づらさを感じ、半壊の自宅に戻る人もいました。男性の目を気にして、トイレに行くのを我慢し、水分摂取を控えために、体調を崩した女性も多かったようです。(私たちも東日本の震災を受けて知ったのですが、)「トイレは男女離して作る」という国際基準あったそうです。
■大変なとき、家庭内のもめごとなんて・・・
暴力問題も表には出にくかったものの存在していました。
妊娠8ヶ月、彼と同棲中に被災し、家を失い、彼の実家に居候していた女性です。「子どもなんかいるもんか」と彼から殴る蹴るの暴行を受けていると相談を受けました。「彼の家族はあなたを守ってくれないの?」と尋ねましたが、「頼むから、息子を怒らせないでくれと言われるばかりで、誰も自分を守ってくれない」というものでした。
家のローンがまだあるのに家がなくなってしまって、夫の取引先もつぶれて、毎晩、子どもに暴力をふるう、という相談もありました。
「みんな被災している大変な時なのに、家庭内のつまらないもめごとを相談する私はわがままですか?」とみんな言います。
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■東日本の被災地へ
神戸との違いとして、女性に対する暴力や性被害に対する対策は進んでいました。女性の自衛官や警官が全国から派遣されていましたし、女性の支援団体も予防カードを配ったり、張り紙をしていたり、配慮がされていました。
■そこでしか生きられない、だから我慢する
女性だけで語り合う女性支援セミナーを2ヶ月に1回ぐらいしていました。
そこで、こんな話をした人がいました。阪神・淡路大震災のとき、仮設は辺鄙なところに作られました。小さな子どもがいる人は、なかなか買い物に行けませんでした。代わりにお買い物に行ってくれるおじさんがいたそうです。そのおじさんに感謝して、夕食に招いたときに、被害にあったそうです。
その話を聞き、「その時すぐに、警察に行けばよかったのに」と言った方がいました。その言葉に対し、「そこでしか生きていけない時に、誰にそれを語れと言うのですか?」と言ったのが心に残りました。
今度、災害が起こったときに、そういうことが決して起こらないように、伝えていかなければならないと思いました。
■避難所の運営にも女性を
阪神・淡路大震災のときから、変わっていない点もありました。女性はきちんと意見を持っていて、参画していけるのに避難所の運営にあまりは入れていないことです。女性が運営に関わることで、生理用品や下着の配布一つとっても配慮が出てきます。男女半々のリーダーを置いた避難所では、運営がうまくいき、表情が明るかったといいます。男女それぞれの目線をいかした運営をしていくことが大切です。
■岩手県の復興会議
18人のメンバー、1回目の会議は女性ゼロでした。女性たちが声を上げ、2回目には、婦人団体の代表と栄養士会の会長が入られました。沿岸部が大きな被害を受けました。岩手県漁協の女性部は8300人おられます。北海道に次いで2位の多さです。その人たちが1人も会議に入らないというのは、どういうことだろうと思いました。女性たちの多くが魚の加工場で働いていています。加工場が流され、仕事がないという生活の不安を抱えておられます。そういうことも反映される復興会議でなければならないと思うのです。
■東日本大震災女性ネットワーク
私も、世話人をしています。活動で出たことをまとめて、毎月、国に提言をしていくことにしています。たとえば、復興の仕事が、がれき処理など力仕事が多いので、女性の雇用喪失も考えて欲しいです。市町村レベルで復興会議が行われていますが、なかなかそこに女性が入っていけないし、女性の意見が反映されにくい現状があります。そのような会議には、女性を30%以上入れてほしい、女性復興会議も立ち上げてほしいということです。
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■女性の雇用の喪失
大きく取り上げられなかったものの、阪神・淡路大震災では、10万人の方が解雇されました。女性は補助労働だという考えもあり、その10万人の多くはパートなど非正規雇用の方です。雇用の喪失は、シングルの方はすごく大変です。
■安心して住める住まいを
災害時に女性や子どもはうまくいかないことやストレスのはけ口にされがちです。女性は出て行く先がないと、我慢されます。すでに8月に仮設で、DVによる殺人事件が起こっています。困ったときに、SOSをきちんと出せて、その人が安心して住めるすまいを提供できるような環境をつくることが大切だと思います。
■ハンドマッサージ隊になって
保健師、助産師とともに、被災地に入りました。「何かお困りですか?」と聞いても見ず知らずの私たちに話してはもらえませんでした。そこで、持っていたハンドクリームを使って、ハンドマッサージ隊になりました。とても好評で、たくさんの人が寄ってきてくれました。
■ハンドマッサージをしながら
1人10分程度ですが、いろいろな話をしました。ごつごつの手の方がおられたので、「すごく頑張って働いてこられたのですね」と言ったら、「私は3、40年ずっと魚を加工していた」とおっしゃっていた方の手は、包丁の形や魚を握る形に変形していました。ご主人と一緒に船にのって魚を引き上げていたという80代の女性もいました。沿岸部の女性たちはとてもたくましかったです。足湯と同じように、肌にふれることで心が開かれるようでした。
「ハンドマッサージは、誰にでもできます。皆さんもお互いにしてくださいね」と、マッサージクリームを渡しました。
「何がほしいですか?」と聞くと、仕事や車と答えた方が大勢いらっしゃいました。その声を聞いた友人が、廃車にする車を手配して、シェアカーとして被災地に提供するということもありました。
■忘れないでいてほしい
私は、同じところへ行って、同じ人たちと交流をしていこうと思いました。帰るときに、「本当に何もできないのが申し訳ないと思う」と私が言うと、「神戸のときは遠くて行けなかった。でも、今回は、こうして来てくれることが嬉しい。勇気づけられる」と言っていただけました。物資を送ってくれることも嬉しいけれど、「どうしてる?」と電話をかけてくれること、忘れないでいてくれることが嬉しいと言っていました。お友達になっていくことがいいかなと思います。