2011年12月03日

3月11日以降5ヶ月に渡る福島での経験から、12月今こそ神戸の知恵が生きると語る長谷部治さんの提議。

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今月のゲスト:社会福祉法人神戸市社会福祉協議会総務部経営企画課主事 長谷部治さん


■長田に来たのは1995年の2月
阪神・淡路大震災を鹿児島で知り、ボランティアで長田に来ました。大学3年の終わりでした。4年になり大学には戻りましたが、大学は休みも長いので、かなりの時間を長田で過ごしました。翌年、長田の社会福祉協議会に入社し、ボランティアセンターで長く勤めさせていただきました。

■東京での臨時会議
東日本大震災の翌日、東京での臨時会議に行きました。災害ボランティア活動支援プロジェクト会議という全国組織の会議です。災害ボランティアセンターの運営や支援体制について話し合いました。
現地の様子は全く分からない状態でした。全国から人を集めて、ボランティアセンターの運営を手伝うことや、お金のことなどを伝えに行くことになりました。3月12日の夜に、私は、福島と宮城に伝えに行く担当に決まりました。道中で、福島に入れたという委員がいたので、福島は任せることにして、宮城に向いました。
3月13日の未明から2日間、現地の様子を見させていただきました。

■ガソリンがない
宮城県社協・仙台社協の車を緊急車両に指定してもらいました。高速道路上のガソリンスタンドは生きていたので、給油でき、被災エリアの市町村に行くことができました。(正直、それまでは、燃費のいい車の取り合いでした。)

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■2つの大震災の違い
語弊があるかもしれませんが、仙台の町中に入ったときに、「意外と大したことないな」と思いました。自販機やビルもほとんど倒れていなかったからです。
一方で、仙台東部道路という盛土構造の道路をくぐり、海側に出た瞬間に、何もかも流されているという状況でした。「局地的」という表現そのもので、津波の来たエリアが局地的にやられ、その他のエリアは、阪神・淡路の時に比べると揺れの被害が少なかったという印象がありました。
また、「けが人があまりにも少ない」と日赤の医療チームがよく言っていました。全く大丈夫か、お亡くなりになっているかの両極端で、死亡判定をするのと、健康薬の対応をするのがほとんどだったようです。

■過去の災害の経験が通用しない
福島県内のボランティアセンターへ人を送り込むための調整をしていました。初期は、「本当にそこに行って大丈夫なのか?」という議論も大きかったです。
南相馬市の原町区にボランティアセンターを設立したものの、政府の区画では、屋内退避エリアでした。「屋内退避エリアでのボランティア活動をどう考えるか」「テントは屋内か屋外か」など過去の災害の経験が通用しないことも多くありました。

■ボランティアの安全は、被災者の安心にもつながる
過去の経験が通用しない中で、信念を持って貫いたのは、「被災者の方たちは、ボランティアが自分の家や町に来て、怪我をしたり、お亡くなりになって喜ぶ人はいない」ということです。
過去、私が関わった災害ボランティアセンターで3名の方がお亡くなりになっています。4人目を出さないということは、私にとっての命題でした。
この夏は、非常に暑かったのですが断固として、長袖長ズボンは徹底させました。「あなたが安全に帰ってくることが、被災者の人の安心にもつながる」ということをきちんと伝えていきました。
並行して、熱中症対策も必要でした。水分補給のためのスポーツドリンクの手配も私の仕事でした。
特に、計画停電などの影響もあってか、関東勢の当事者意識が極めて強かったです。

■阪神・淡路から16年が経ち、法律も制度も変わった
介護保険の始まり、障害者自立支援法、個人情報保護法などができ、保護条例が各地に設置されていることは、支援活動に良くも悪くも大きく影響していました。
近年は、ケアマネージャーやホームヘルパーが個別に関わっているので、阪神・淡路の時ほど、孤独死リスクは高くないと思っています。福祉に関わる仕事をしている人や家族が多くなったことで、市民の目が変わってきているということもあります。
個人情報保護法には、緊急時の除外規定もあります。犠牲者の一覧がテロップで流れるなどがそうです。しかし、緊急時はいつまでかということは、市町村の条例によって違っていたり、決められていなかったりします。
仮設住宅の入居者名簿が出てこない、避難所の住民の構成が分からないという「情報が全く出てこない」という現象もよくありました。

■市町村をまたいだ避難の難しさ
福島に関して言えば、元の市町村から離れて避難しているケースがよくあります。
飯舘村の村民が福島市に避難している時に、保護条例は、飯舘村と福島市どちらに起因するのか、という問題が生じてきます。
また、相馬市では、避難所だけでなく仮設にも夕食を配っていました。飯舘村の人で、相馬市の仮設に入った人は、夕食があたるけれど、福島市の仮設に入った人は夕食があたらないという問題もありました。

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■福島の34か所の災害ボランティアセンター
発災直後3日以内にボランティアセンターを作ることが、私達の目標です。しかし、今回は6月にも新規のボランティアセンターが出来たところもあります。飯舘村は、全壊、半壊ゼロでした。ところが、空間放射線量が高く、二重避難を余儀なくされ、新たに避難した地域でボランティアセンターが開設されたためです。
福島県下、59市町村に34か所の災害ボランティアセンターが開設されていました。岩手宮城あわせた37エリアのボランティアセンターと同じくらいのボランティアセンターが開設されています。

■今後の支援、今こそ阪神・淡路の経験を・・・
携帯電話やインターネットが普及し、人の生活も変化しました。ボランティアセンターの支援としては、2004年の中越地震、2006年の中越沖地震を参考にすべきことが沢山あります。
応急仮設住宅への避難というと、プレハブの仮設住宅をイメージしがちです。しかし、東日本大震災の被災地では、みなし仮設(民間のアパートやマンションを県や市が借り上げ、仮設住宅として住むことができる住宅)の数はプレハブ住宅のおよそ倍です。通常の地域に住んでいるという実態からすると、災害復興住宅のときと同じ支援対策が必要なのです。
これだけ大規模な復興住宅の支援活動を経験しているまちは神戸だけです。住民を地域につなぐ活動をしていかないといけないと思います。
社協は、阪神・淡路の時、災害ボランティアコーディネーションというより、仮設支援や復興住宅支援を頑張ってきた組織だと思っています。今後、どういう課題や問題が出てくるかということが一番よく分かっているのは神戸のワーカーだと思っています。

■東北から学ぶこと
「阪神・淡路の恩返しをせなあかん」という思いがあります。お返しも大事ですが、一歩違う視点で、東北から学ぶことも必要です。それだけ法律や社会情景も変わっています。今後の災害が神戸で起きた時のことを考えると、東北の取り組みから知ることや神戸に返さなければいけないことも多いのではないかと思っています。

■共同募金の赤い羽根
阪神・淡路のときに、ボランティアセンターをするお金がなかった経験から、2004年に変更され、現在では、共同募金の3%は災害ボランティアセンターのために毎年プールされています。
posted by FMYY at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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