2011年06月15日

5月阪神淡路大震災のラジオでの情報支援の知恵を生かし東北大震災の情報支援を行う!

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2011年5月のゲストは、特定非営利活動法人エフエムわいわい代表日比野純一さん


■東日本大震災、FMわぃわぃの活動
3月11日以降、臨時の災害FM局がたくさん立ち上がりました。また、もともとあったコミュニティ放送局が出力を増大して臨時の災害FM局として放送をしています。災害FM局は、災害情報、救援情報、復旧情報などを流しています。そのラジオ局を通して、被災地支援をするというのがFMわぃわぃの活動の一つです。
16年前と比べると、災害FM局に対して法律も柔軟に対応しています。東北総合通信局の方は、電話一本でラジオの認可をしているとのことでした。臨時のFM局の期間は通常2〜3ヶ月ですが、状況を見て放送を続けていく、ということでした。

■放送局を立ち上げ、広げていく中での一番の苦労
16年前、災害が起こって、災害ラジオ局を立ち上げました。最初の1、2ヶ月は「やらなきゃいけない」という気持ちや勢いもあるし、人も沢山いました。でも、何ヶ月か経った時に、続けていく体力ですよね。人のマンパワーと経済的な持続力です。
東北の人たちも、今、放送をしているのは、被災の大きくなかった地元の人たちです。彼らは、復興の段階で、いずれコミュニティ放送局になったらいいなと思っています。ただ、今は、「今日のこと」「明日のこと」で頑張っている状況です。この状況で、いつまで続けられるかというところですよね。
中央募金会に寄せられた支援金があります。地元の人たちがグループを作って申し込みをしたら、300万円まで救援活動にあてることができます。その中に、コミュニティFMも明記されています。社会的に続けていくためのお金も必要だという位置づけができてきたということだと思います。

■被災地はまだ強い余震も続いていて…
現地は、本当に大変です。初めて訪問したとき、目を疑いました。現地は、まだ強い余震がしばしば起こっています。災害FM局は、緊急時放送の役割も果たさなければなりません。神戸の場合、1、2ヶ月経った頃には、復旧の活動などの情報を流していくという比重が高まっていました。東北では、復旧の情報も流していますが、緊急時のことも常に考えているような状況です。東北の人は、「ラジオの台数がいくらあっても足りないんだ、一人一人が持ってもらうような形がいいんだ」と言っていましたね。

■臨時災害FM局は
臨時災害FM局は、市町村など役所に認可をおろします。市や町の役場の職員が放送をするわけではありません。地元の商店街の人たちだとか、活動が出来る人が寄り合って放送をしています。市役所の一室でしているところもあります。市役所の空き地にプレハブを建て、生活相談の隣でしているところもあります。市役所のフロアで罹災証明を発行している隣で放送しているところもあります。

■自分たちの言葉で 自分たちのまちを伝える
亘理町の臨時のラジオ局の話です。亘理弁で民話を朗読する時間があって、避難所でおじいちゃんやおばあちゃんが楽しみして聴いているそうです。自分たちの言葉で、自分たちのまちに伝わったものを流したいという、地域の放送局ならではですね。阪神大震災の時に、FMわぃわぃのもとになったラジオ局が、民話や民謡を流していたのと同じですね。

■震度6強の余震「防災とラジオ」
4月7日、震度6強の地震を宮城野区のビジネスホテルの8階で感じました。すぐ停電し、テレビはふってくる、風呂の水が出てくるような状態でした。懐中電灯を探して部屋から出ました。危ないので、ラジオをつけながら、非常階段で1階まで降りました。ラジオをつけたら、同じホテルに泊まっていた方々がラジオに寄ってきました。「防災とラジオ」ということを今までいろんなところで10数年、言ってきましたが、身をもってラジオの力を実感したのは初めてでした。ものすごく安心感がありました。夜はラジオが大きな支えになりますね。


■東日本大震災と多言語放送
FMわぃわぃは、震災当時5言語でしたが、現在は10言語で放送をしています。
神戸というと外国人の方が多いというイメージがありますね。東北はどうなのかな?と思っていました。今や、日本全国、農村に行けば花嫁さんとしてアジアから来ている人がいたり、研修生として水産工場で働いていたり、隅々まで外国人の方がいらっしゃいます。ただ、固まっているわけではないので、「ラジオ局の方の意識もそこまで高くないんじゃないか?」と思っていたんです。
でも、電話をしてみて、いい意味で裏切られていました。私たちが、「多言語の放送のCDを作ってお渡ししますよ」と申し出ると、「もうすでにやってますよ」という答えが返ってきたり、「自分たちの地域には中国の人たちいるので、言葉が分からなくて、つらい思いをしていると思うので、流したいです」と言われたりしました。

■長田の英知が詰まった多言語情報CD
被災地の状況を多言語の音声情報にして、いろんな言語にしているCDです。災害FM局でCDプレイヤーにかけるとその情報が被災者に届けられるという仕組みのものです。阪神淡路大震災以降、積み上げてきたものです。
始まりは、96年の4月に長田区の消防署に勤めていらした人の一声でした。「カセットで、ボタン一つでいろんな言語の情報が流せるようなのが、ラジオ局に備わっていれば、何かあった時に、すぐ流されるじゃないか!」と。あらかじめある程度のものを作っておいたもの、災害が起こってから新たに情報を足していく仕組みなど、10数年やってきたものが、今回非常に役に立ちました。

■神戸から、新潟そして東北へ
2004年10月の新潟県中越地震のときにも、多言語放送はありました。新潟にも、多くの外国人がいました。「何が起こっているかわからない」というニュースが届いたので、現地のFMながおかに、連絡をとりました。「新潟から情報を送っていただいたら、神戸で翻訳して、音声にして送ります。」と申し出ました。「30分でもいいから、多言語の情報を定時で流してほしい」とお願いしました。FMながおかは、3ヶ月間くらい放送してくれて、多言語放送の必要性を感じてくれました。
FMながおかも同じ被災地のラジオ局として、今回の震災の臨時FM局立ち上げの手伝いをしていました。そのときに、「多言語放送をしなさい」「そこに外国人がいるなら、出演してもらったらいいから」と伝えてくれたそうです。嬉しくなりましたね。

■地域の復旧、復興を考えて いろんな人と話しながら…
被災地の災害FM局に行くと、阪神淡路の被災地からやってきたことを喜ばれ、何もないところから素人で、情報を伝えなければ、とラジオを始めた仲間として話してくださいと言われました。
ある曲をかけても、「なんでこんな曲を流すな!」と言う人もいれば、「この曲を流してくれてありがとう」と言う人もいます。いろんな声が寄せられます。いろんなことを考えたら何も出来なくなります。地域の復旧、復興を考え、いろんな人と話しながら、自信を持ってやってくださいということを伝えました。

■事前の備え 知見や横の繋がりがいきる
被害が甚大で、自分たちの無力感は被災地に行った瞬間に思いました。でも、一人一人、被災地の人たちと話をすると、やはり事前に備えをしていた者は、同じ災害が起こってそこから始まったとしても、スピードやネットワークや知恵が全然違うと思います。
震災直後、ボランティアを控えるようにという風潮がありました。しかし、石巻専修大学は、全国から1日1500人くらいのボランティアがテントを張って生活していました。校内を開放して、駅からのバスを運行して、積極的にボランティアを受け入れていました。この大学は、いずれ津波や災害が起こることはわかっていたので、職員を様々な被災地に派遣して、自分たちに何ができるか研究をしてきていたそうです。事前から備える、いろんな人とつながっていくことがいかに大切か、身をもって感じて帰ってきました。
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2011年04月24日

4月市職員として出会った「阪神淡路大震災」の役所業務の矛盾とそこから始まった「神戸の冬を支える会」

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2011年4月のゲストは神戸市職員觜本郁(はしもとかおる)さんです。


■地震があった16年前、お勤めは?
当時は、西区役所に勤めていました。震災当初から避難所のお世話をしていました。業務として、家屋の被災調査、避難所の当番、仮設住宅まわりなど、いろんなことをした記憶があります。日常の業務では、被災者の方の相談を聞くというのも相当なものであったと記憶しています。
前年まで、灘区の福祉事務所に勤め、生活保護の仕事をしていました。お世話をした方が、どうなっているかとても心配でした。公務の合間をぬって、自転車に乗って、灘まで見に行きました。

■灘区の福祉事務所に行って・・・
事務所にはほとんど誰もいませんでした。担当の遺体安置所にいる、とのことでした。灘区の遺体安置所であった王子スポーツセンターに行きました。以前、自分が担当をした5人の方のお名前もそこにはありました。

■深夜にたずねて来られた一人の女性
父親が安置されていると聞いてやって来られた方でした。お父様のご遺体はとても傷んでいました。
一緒にいて、話をお聞きしました。どんな事情があったかは分かりませんが、お父さんとは離れて暮らしておられたようでした。ご遺体は、翌朝には親戚が来て、田舎へ帰るということでした。ここが最後だと思って深夜に駆けつけてこられたそうです。何年ぶりかの再会がこのような形でつらかったと思います。
数本の線香を持って来られていましたが、線香を立てるものもありませんでした。近くでご遺体に付き添っておられた方が、「これに突き刺すといいよ」とみかんを持ってきてくれ、お父さんを弔いました。こうして一緒に弔ってくれる人がいて、嬉しかったと涙を流して帰られました。その姿が忘れられません。一緒にいるというのが支えになるという一つの経験でした。


■「お役所仕事」の歯がゆさ
斎場が足りず、他都市の斎場を借りることになり、明日の朝までに30体を選ばなければならなくなりました。「必ず埋葬許可があるもの」という条件がありました。ご遺族に「どうされますか?」と聞いてまわりました。
奥様を亡くされたご高齢の男性にもお聞きしました。この方は、埋葬許可を持っておられませんでした。埋葬許可をとるためには、王子スポーツセンターから、神戸大医学部まで行って遺体検案書をもらい、灘区役所で届けを出さなければなりませんでした。
「埋葬許可がない人をリストに入れるわけにはいかない。指示に従ってもらわないと困る」と仲間とも喧嘩になりました。
一人の若い職員にバイクで行ってもらうようにお願いしました。夜が明ける頃に埋葬許可が届き、ご遺体を斎場へ行くことができました。
200体を超える遺体を前にして、仕事をしてきたつもりでしたが、そうではなかったことを知りました。妥協せずに、おかしいことはおかしいと言っていくことが必要だと思いました。ご遺族の前で「何でも言ってください、何でもさせてもらいます」と言いました。その言葉には根拠や背景があるので、それを理解せずに、「できません」ということはよくないと思いました。


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■「神戸の冬を支える会」での活動
冬という名前が付いていますが、年中活動しています。震災直後、ホームレスの方が震災の被災者として取り扱われず、支援から排除されるのはおかしいのではないかということで団体ができました。95年の秋から冬にかけてできた団体です。
外国人支援のグループが震災直後に立ち上がり、その会議に出席した際に、「誰かホームレス支援や生活保護、福祉に詳しい人はいないか?」と尋ねられました。少しは知っていたので、私が手を挙げました。その後、支援活動に関わるようになりました。

■生まれながらにしてのホームレスはいない
みんな生まれ故郷があって、思い出があって、夢を持って生きてきた人です。でも、なんらかの理由があって家を失い、公園や駅で寝泊りせざるをえなくなっている、そんな人たちです。好きでやっているわけではありません。誤解されている部分が多いと思います。

■ホームレスの変化
今年は、200〜250食を用意しました。2000年前後は500食以上、用意したこともあります。近年、公園で寝ている方は減ってきました。一時期は500人を超えていましたが、去年の調査では、140人でした。減っているようにも見えますが、喜べないこともあります。「ネットカフェ難民」という言葉もあるように、安定した家のない人がいます。形が変わり、見えにくくなっているという面もあります。

■若者がホームレスを襲う事件
行動的に深い根があると思います。社会が、少年たちに、「ホームレスは、役に立たない人だ」というメッセージを送ってしまっているのではないかと思います。
震災のときも「救援物資を分けてもらえない」「避難所から出て行け」言われるという事実がありました。みんな理由は違うにしろ、家を失った者同士です。支援策から排除することはおかしいと思い、ホームレスの支援活動が始まりました。
多くのホームレスは、今まで社会を支えてこられた方です。不況になって収入がなくなって、そういう目に遭っている、というところまで想いが至らないというところに問題があると思います。排除しても何も変わりません。

■最後に…
東日本大震災に対しても、やることはたくさんあると思います。ぜひ頑張ってもらいたいです。阪神淡路大震災のときの教訓や反省を、心の隅に置いておいてもらえたら嬉しいです。

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2011年03月11日

3月震災時の経験を大学のの教育の現場で地域連携と遠隔地連携で展開。

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2011年3月の「大震災を語り継ぐ」のゲストは、神戸学院大学人文学科教授 前林清和さん


■「防災・社会貢献ユニット」とは?
学際教育機構という法・経済・経営・人文の4学部の学生が、2年次から3年間、選択して学べるコースです。全国唯一のコースです。防災・社会貢献ユニットの学生は、防災やボランティア、国際協力を専門的に勉強して卒業していくコースです。5〜6年前にスタートしました。学生は、震災を経験している学生は3分の1から半分くらいです。震災を経験した学生も、当時は2、3歳くらいです。

■震災前から防災関連の研究を?
私の専攻は日本思想史です。震災直後から、自分のゼミ生を中心に、リュックサックを背負って、学生の安否確認をしました。ボランティアや防災について、学生と活動を始めたという感じです。これだけ大きな災害があって、負の遺産を次の世代や日本、世界のために教訓として学問体系として発信していきたい、カリキュラムとして組み込まれたものが必要ではないかと考えました。

■学校の危機管理体制はいかがでしたか?
うちの学校だけでなく、どこもだと思いますが、神戸で地震が起きるなんて思っていませんでした。よく考えたら日本どこででも地震は起きるんですけどね。ハードの面でも、ソフトの面でも、人間の意識の面でも、日ごろの備えが大切だということを啓発していきたいです。

■学生はユニットでどんなことを学びますか?
学問的なことも学びますが、実践的な活動も行います。心肺蘇生の訓練も受けますし、市民救命士のインストラクターの資格をとって、中学生や高校生に教えるという活動もしています。中学生や高校生は、学生と年齢が近い分、親しみをもちやすいのではないかと思います。人を教えるということで、学生たちは、徹夜してでも勉強をしてきますので、共に良い学びになると思います。ユニットは、Win-Winの関係を目指しています。新潟や佐用など、被災をした地域にも出向いて活動をしています。大きな活動はできないかもしれませんが、繋がることは支えになるのではないかと思っています。また、非日常の世界は、いくら口で説明しても、本を読んでも分からない部分が多いと思うので、現場に行って学ぶことは大きいと思います。

■いつどこで何が起こるかわからない時代
災害は、増えているし、規模も大きくなってきています。私たちにふりかかってくる可能性は高くなっています。基本的には、自分で自分の身を守るという意識が最も大切です。日ごろそのような学びをしておくことが大切ですし、自分の身が守られた瞬間に、周りの人を助けようという共助の感覚を一人一人が見につけておく必要があると思います。

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■地域の大学との連携 〜ポーアイにある4大学〜
ポートアイランドにある4大学(神戸学院大学、神戸女子大学、神戸女子短期、大学兵庫医療大学)とも連携して、防災や健康についての活動をしています。それぞれに福祉や医療、防災など大学ごとに特色をいかしています。

■遠隔地にある大学との連携 〜東北福祉大(宮城)工学院大(東京)〜
近くの大学は、連携しやすいですが、災害にあえば共倒れになる可能性も高いです。遠隔であれば、一つの大学が被害にあっても、二つの大学が助けることが出来るという発想です。
福祉、工学、人文社会など、大学の持ち味が異なっています。防災は、一つの学問分野では研究しきれない学問です。それぞれの大学の強み、特色をいかすことによって、総合的な研究ができます。それぞれの大学の講義をインターネット配信で授業も行っています。目の前に自分の大学の学生、2つの画面にそれぞれの大学の学生がうつっています。リアルタイムに質疑応答をすることもできます。夏休みや冬休みには、集中講義で、3つの大学の学生が集まって授業を受けることもあります。

■「社会貢献学会」と「社会貢献活動支援士」
3月5日「社会貢献学会」を立ち上げます。一般的な学術学会ではなく、社会人や市民の方にもたくさん入っていただきたいと考えています。今まで、大学間連携で培ってきたものを、市民の方に活用していただいて、災害が起きたときに、お互いに助け合えるような知識や能力、実践力を身につけていただきたいと思っています。
「社会貢献活動支援士」という新しい資格も作っていきます。この資格の更新は、3年間で更新するシステムになっていて、資格のための資格ではなく、活動するための一つのツールだと考えています。実際に活動をしたり、学んでいくことが大切だと思っています。

■これから起こるかもしれない
寺田寅彦先生が「災害は忘れた頃にやってくる」という名言を残しています。世界では年間400ほどの災害が起こっています。そう考えると、災害は毎日やってくるということで、この意識が大切だと思います。何か自分ができることをすること、(例えば、現地に行くことができなければ、募金をすることをするなど)視野を広げれば、災害に関わることが大切だと思います。

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2011年02月15日

2月神戸の定住外国人としての老華僑たちの震災体験、南京町商店街組合理事長老祥記の三代目曹英生さん

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2011年2月の大震災を語り継ぐ ゲストは南京町商店街振興組合理事長曹英生さん


■春節祭間近に被災
組合には、95店舗が加入していました。震災前日は連休で、たくさんのお客さんが来られていました。それが、震災で町の中はぐちゃぐちゃに、全く違う光景になってしまいました。「春節祭も近づいている。何かせなアカン。」あの年は、1月31日が旧暦の1月1日でした。17日は、ちょうどその2週間前。17日に許可書類の関係が完了するはずで「さあ、今からやろうぜ」という日でした。そこで、緊急総会を開きました。多くの人が参加してくれ、祭は中止と決めました。まずは、店主や従業員の安否確認をしました。幸い、大きなケガ、死亡者はいませんでした。

■春節祭の日に炊き出し
食べるものはあったが、冷たいものしかありませんでした。「神戸は食のまち、熱いものを提供したい」「少しでも幸せな気持ちになってもらいたい」ということで、炊き出しをすることになりました。春節が近づいていたので、プロパンを用意していた店が多く、それを使って、炊き出しができました。

■「老祥記」のお店は? まわりのお店は?
商売できる状態ではありませんでした。老祥記は、プロパンが使えることが確認できた2月1日から開店しました。その時は、販売するのではなく、10個ずつ包んで無料で持って帰っていただきました。その代わりに義援金箱を置きました。その日は7000個作りました。(普段は、1万個くらい作っています。)あの時は、物流は結構ありました。問屋のストックもありました。お客さんが来ないので、ミンチも冷蔵庫にたっぷりありました。小麦粉も結構ありました。
2月3日からは、普通の販売に切り替えました。早い店では、震災の翌日から、「腐ってしまうので」と肉をホットプレートで焼いて販売していました。華僑の前向きさや強さを感じました。それを見た日本人の魚屋さんも「うちは炭があるから」と肉屋に刺激を受けていました。

■仲間の大切さ
区画整理が終わってからちょうど10年ほどで震災にあいました。建物は比較的頑丈でした。組合員の方は、みなさんのためになることをまず考えました。次に自分達のことを考えました。「人をこの町に戻したい」という気持ちでした。
今考えると恥ずかしいけど、地震から2、3日後に「神戸で頑張るより、大阪に行ったほうがいいのではないか」と一瞬考えたことがありました。でも、臨時総会で、みんなの意気込みを感じて、神戸で立ち上げなあかんと思いました。一人で考えると後ろ向きになってしまうことでもみんなでいろんな話をすることで、前向きな気持ちをもらいました。

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■「動」のまちづくり
老祥記は、おじいちゃんの代からです。高校生の頃から手伝うようになりました。昔は、外人バーがたくさんあって、昼からお酒を召し上がってハイテンンションな人がたくさんいらっしゃいました。昔と比べるとお客さんも増えて、ずいぶん賑やかになりました。
区画整理をして、観光地としての位置づけが、しっかりできました。どんどんお客さんが増えてきました。年がら年中お祭のような町です。いつも動いているのは嬉しいです。

■自宅は?
中央区のマンション11階で、立っているものは、全て倒れました。「ダイ・ハード」という映画のようにガラスが床にまんべんなく散らばっていました。ケガをして、血がべったり足の裏についていたのに気付いたのは、1週間後、風呂に入ったときでした。
一時的に、自宅前の中学校に避難していました。初日は余震がひどく、眠れませんでした。新華僑(近年20年くらいに来た華僑)も老華僑(3代目、4代目にあたる人)も老若男女みな避難しました。中華同文にも、華僑だけでなく日本人もたくさん避難していました。

■早々に避難所を引き上げて
ライフラインが全てで、商売どころではありませんでした。当時は、副理事長で、理事長と同じ避難所にいました。南京町は夜になると暗いので、パトロールを兼ねて住み移りました。自分の店で、親戚など17人が共同生活をしていました。

■ガスが通った!
3月中旬、ガスが開通する記念に、復活祭をしました。はじめて獅子舞を出しました。神戸まつりが中止になったので、南京町で何かしないかというファックスがきました。そこで、元町商店街と一緒に、「こうべ5月まつり」をしました。大雨でしたが、アーケードの中でしたので、いつもの神戸まつりのようにマーチング、バトン、サンバも手弁当で来てくれました。日本人は「こんな時ににぎやかにしていいのかな」と自粛します。華僑が突破口になったかもしれないです。いろんな考えが混じってよかったのかもしれないです。
震災の時は、不思議と、信号がなくても譲り合う精神がありました。これが本来のマナーなんだろうなと思います。注意力も増していました。人間が持っている本能がよみがえったのがあの時期だったように思います。

■未来へのメッセージ
まずは考えるより体を動かすことです。外に出て、観察して、人と話をする、一歩一歩の積み重ねが大事です。私達にとっては、炊き出しがまず1歩でした。お客さんへの顔、組合員に対しての顔が一致していないといけません。みなさんが幸せになって楽しくなるようなことを考えて実行しくことが大切です。一番大事なのは、行動力とお金です。中国人は、お金は幸せになる一つの手段だと思っています。お金をためるのではなく、有効的に使ってまちに人を呼び込む仕掛けを作るかということが大切です。
春節祭のほかにも、南京町には、3月から4月のはじめに「交流春風祭」があります。これは、春の神戸観光の一つの仕掛けです。中秋の時には、「中秋祭」をします。

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2011年01月19日

2011年1月 『震災の経験を語り継ぐことで乗り越えられたこと』 ゲストはNPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り(HANDS)理事長白木利周さん

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2011年1月のゲスト NPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り(HANDS)理事長の白木利周さん。白木さんご自身も、震災で息子さんを亡くされました。


■1.17希望の灯り(HANDS)の活動
東遊園地に希望の灯りを作っていただきました。希望の灯りをお分けする活動(分灯)や、各地にある慰霊碑をめぐるモニュメントウォーク、復興のシンボル「はるかのひまわり」を全国の皆さんへ送る活動などを行っています。一番大きなものは、1.17のつどいを行うこと、震災を次の世代へ伝える語り部の活動です。ウォークは99年から始まり、この4月で60回目を迎えます。

■息子さんの死、いまの活動
息子は神戸大学3年生、21歳で亡くなりました。家は、東灘区御影でした。家の倒壊が多い地域でした。私がそこにいて、助けることができなかったという悔しさ、「なんで息子じゃないとだめだったの?」「かわってやりたい」という気持ちが強かったです。「会いたい、でも会えない」というのが、悔しいし、残念で仕方がなかったです。
心の踏ん切りには、4年かかりました。偶然、神戸大の慰霊祭に出かけました。そこで、(ある番組の中の)ウォークで神戸大に来られていた方と出会いました。その方との出会いもあって、トンネルから抜け出すことができました。その出会いが、このような活動に入るきっかけを作ってくれました。慰霊碑のマップもつくっておられて、私の子どもに関する碑は、4箇所ありました。他にもたくさんの碑があったことに驚きました。自分の足で回りたいと思いました。

■ウォークに参加して・・・
遺族の方との出会いが、気持ちを分かる人たちとの出会いでもあります。「自分たちだけが不幸」ではなく、「同じ立場の人がたくさんいる」と、お互いの気持ちをわかちあえます。心の負担が少しずつなくなっていきました。当時元気だった妻も、ウォークでみなさんと会うことを楽しみにしていました。しかし、妻は途中から体調を崩して。やっぱり「亡くなった子どものこと」を思っていました。それが結果的にはストレスをためる原因であったのかもしれないです。

■東遊園地のモニュメント
東遊園地のモニュメントは2000年にできました。そこに行くと、妻は「私の名前も息子の名前と一緒に入れて欲しい」とずっと言っていました。2003年12月から、神戸市以外の方も、震災が原因でなくなられた方の名前も載せれるようになりました。
ご遺族の方から問い合わせがあった時に、どうやって、お気持ちをそこに表現していくかということを考えています。

■希望の灯りと分灯
震災のとき、暗くて厳しい状況の中で、生きる力を与えてくれたのが灯りでした。完成した2001年には、神戸からの感謝ということで、全国に持っていきました。
1.17のつどいをやりたい、この灯りで何かをつくりたいというご意見であれば、分灯をしています。団体、特に学校が多いですが、今の中学生はもう震災を知らない世代になっているので、分灯も語り継ぐための道具になっているのではないかと思っています。

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■ルミナリエに新しくできた語り部コーナー
私も、毎日、現場に詰めていました。私は、子どものことについて、震災当時の話、その後の活動(中越地震の現場に行った話など)をしました。語り部場コーナーは、若い人からの「震災のことを伝えていかなければいけない。語り部をやりませんか。」という依頼で始まりました。神戸芸術工科大の学生を中心に、神戸市立看護大、大阪音楽大、神戸海星大の学生たち。大阪音楽大の学生の演奏の合間に語り部をしました。語り部の人を集めるには苦労しましたが、今後も続いていくように努力していきたいです。10人の語り部がいれば、10通りの震災に対する思いや考え方があると思います。

■白木さんの震災に対する思い
「生き残った」とは思っていません。あくまでも「生かされている」ということです。いずれ、私も息子のところに行きます。その時、「おやじ、何やってきたんや?」と言われるのが一番辛いです。自分のできることで、少しでもお手伝いできればと思っています。活動の中で、「命の大切さ」、「生きている喜び」を感じています。生きていないと、自分のしたいことはできません。震災のときに、自分の思いの半ばでとまってしまっている人がたくさんいます。生きている人たちが、その人たちの思いや目標をつないでいって欲しいです。生きている間は、いろんなことができる。大切にして欲しいです。
世の中で自殺、殺人、いろんなことが起こっています。でも、本来あってはいけないことです。震災、災害について語っていただける時間をたくさん作っていってもらいたいです。必要とする人がいれば、必要とされる人がいます。1人じゃないです。

■1.17のつどい
HANDSの他には、神戸市民交流会や和歌山から来るグループも参加しています。外国の方も炊き出しなどを提供しています。後片付けもふくめて、たくさんの人が参加しています。作業をすることで、交流をはかっていきます。最近は、若い人がたくさん入ってきてくれています。もっと入ってきて欲しいです。
竹筒も、兵庫県下の社会福祉協議会に協力を得て、竹を頂いています。つどいのあとは、竹墨に変えて、竹墨も販売して、運営の資金にまわしています。

■白木さんにとって、この16年
「長かった」とは言うものの、実際にはとても短かったです。1月17日には、フラッシュバックのように、瞬間的に当時の状況に戻っていきます。活動をすることは、両肩にかかっている私の宿命です。みなさんと活動をすることで、ゼロにならなくても、軽くなっていきます。これからも頑張っていきたいです。

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2010年12月07日

12月テレビマンとして「やらなくてはならない」こと!それが「その街のこども」だった。

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12月のゲスト NHK大阪放送局制作部チーフディレクター京田光広さん
神戸出身のメディアの人間として、「やらなくてはならないこと」。それが大阪局に戻ってきた自分としての作品「その街のこども」だった。


■東京から大阪へ・・・
東京では、クローズアップ現代や教育テレビのドキュメンタリー番組を担当していました。大阪に来たのは、震災12年の前の年の夏。東京時代は、震災には関わらないようにしていました。大阪転勤で「大阪に来たからには、テレビマンとして、震災をやらなければならない」と思いました。「やりたい」というより、使命感という感じでした。

■「この街の子ども」とは?
NHKのドラマが映画になって上映されるのは初めてのことです。震災15年の特集ドラマで、1月17日夜11時に放映されたドラマです。主演は、森山未來くんと佐藤江梨子さん。それぞれ神戸大学附属住吉小学校4年生、住吉中学校の時に東灘区で震災を体験しています。役どころと実際の体験が重なるような役になっています。当時、震災を体験した子どもが、様々な理由があって神戸を離れ、東京で暮らしている。心の傷、震災を封印して東京で暮らしていた二人が、偶然、新幹線に乗り合わせます。佐藤さんは1.17の集いに行くために、森山君は新幹線内の電光掲示板を目にして、なんとなく新神戸で降ります。なつかしい街を歩き、暗闇の中で話をしながら物語は進んでいきます。二人はクライマックスで、1.17のつどいに行きます。

■ドラマの撮影は?
11月初旬から11月20日すぎまでで主な部分の撮影はしました。ラストシーンの3分は、放送当日の朝(1月17日)に撮りました。ラストシーンの東遊園地の明かりと空間や空気は全てだ(他では表現できない)と思っていたので、当日の朝に撮りました。他に選択肢はありませんでした。

■ドラマの反響は?
番組ホームページに頂いたメール1つ1つが、素敵でした。劇場公開にたどり着いたのも、神戸の方々から暖かい声をいただいたことが大きいです。一番心配だったのが、神戸の人に見ていただけるか、見ていただいた方が認めていただけるかどうかでした。たくさんの声が、支えになって、ここまでたどり着きました。

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■震災のときは?
生まれは、甲子園で、両親は今も神戸に住んでいます。震災の時は、東京にいて、寝ていました。7時すぎに大阪にいた後輩からの電話で地震を知りました。テレビをつけたら阪神高速の映像が飛び込んできて、すぐに局に向かいました。午後になって、死者も多くなってきていたので、「(家族は)もう無理かな」と、思っていました。案外、冷静でした。親とは、14時すぎに連絡がつきました。自分も、その日の夜から大阪局に入って、報道に携わりました。「土地勘もあるのでいい仕事ができる」、「この事態の現場にいないのは・・・」と思って仕事をしていました。終わってみれば、家族を見捨てたというのが、ずっと残っていました。

■震災番組に関わるようになって
震災12年のときから震災番組に関わるようになりました。大きなテーマとして、「震災から生まれたもの」を伝えたいと思っていました。震災12年の時は、「ボランティア」をテーマに、CODEの村井さんたちの様子を伝えました。震災13年の時は、臼井先生の「しあわせはこべるように」など、被災地を勇気付けた歌の物語を紹介しました。この時に、森山未來くんにナビゲーターをしていただいたのが大きなきっかけでした。小学4年生の時の体験で、よく分からないことがたくさんあって、この番組に出ることがきっかけで、彼はお母さんと初めて震災当時の話をしたそうです。当時、子どもだった子どもたちが15年経って、何かを感じて、伝えたいと思う力ってすごいなと思いました。何かやりたいと思って、「この街の子ども」が始まりました。

■映画館での上映が始まって・・・
映画のほとんどが夜のシーンなので、(映画館は、真っ暗な中で見るので、)より溶け込んでいける、一緒に歩いているような気持ちになれるのではないかと思います。
神戸を11月スタートさせて、12月4日から京都シネマで、来年1月15日から東京で上映されます。映画は、テレビでカットせざるをえなかった10分も入っている完全版ですので、テレビをご覧いただいた方もぜひご覧ください。

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2010年11月11日

11月「震災」対応でメディアとして学んだ報道のあり方

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11月のゲストは、地元テレビ局サンテレビジョンの門前喜康(よしやす)さん。
震災がご自身の全ての目線を大きく転換させたという貴重なお話をいただきました。


■震災直後、門前さんは?
震災当時は、サンテレビの報道現場で記者をしていました。長い報道人生の中でも、大きな出来事でした。
住まいは西神でした。「地震だ!こんなに神戸で揺れているのだから、東京が壊滅したのだ」と思いました。父も母も無事だったので、四輪駆動で6時前に家を出ました。発災直後だったので、長田近辺の煙、夢野あたりでは瓦やがれきもたくさん落ちていて、だんだんと実感していきました。停電で信号は消えていたはずなのに、クラクションの音1つしませんでした。夢みたいでした。ポートアイランドのサンテレビに向かいました。

■サンテレビは?
6時半の放送に向けて準備でした。
8時14分に放送がはじまりました。
スタジオの扉がとれ、カメラも折れていましたので、整理するのに時間がかかりました。
技術の職員がチェックをしていました。彼らが千手観音のように見えたことを覚えています。出演者は、島内に一人いたのと、OBの方の支援などもあり、大丈夫でした。


■みんなで助け合って震災報道を続けた
技術が報道記者のようにリポートしました。中継の絵もないので、スタジオに残ったカメラで窓から外の様子を撮ったりしながら出していきました。私の手元にあった電子手帳を頼りに、「(地名)の○○さん」とお名前を書いた紙をカメラの前に置き、各地の人とアナウンサーが話をしました。各地の方に状況を伝えてもらい、点を線に、線を面に、という放送をしました。

■報道方針は?
サンテレビにも災害時の報道マニュアルはありました。しかし、自分の局が被災するというマニュアルはありませんでした。自分達が被災者。被災した建物、被災した組織。自分達が一番ほしがっている情報を放送に結び付けていこうとしました。

■安否情報も伝えた
2日目までは、安否情報もしましたが、追いつきませんでした。生活情報を伝えました。
少しすると、電子的な文字も出せるようになったので、文字と言葉で伝えていきました。

■どんな心構えでしたか?
「センセーショナルな取材はしない」これは一番はじめに決めました。自分達も被災者の痛みが分かるからですかね。会社の仲間、家族、知人、みんないろんな形で被災しているので、実感していたのだと思いますね。

■中央と地方の温度差
関西拠点のメディアとその他では、本当にいろいろとトラブルがありましたね。
長田なんかは、火事のあとの熱気がまだある頃に、どんどんカメラマンが入っていくという状況を見ました。そこは誰かのお宅であるかもしれない、もしかしたらまだ埋まっておられるかもしれないという場に入って行ったメディアに、怒鳴って、引きずり出したということもありました。
キー局や本社が中央にある在阪のテレビ局や新聞社は、すごく悩んでいましたね。私たちは、独立だったので、それはありませんでしたが。


■当時の取材の中での苦労は?
取材はたくさんしました。けれど、最も優先すべきは生活情報でした。他社に比べて、取材したものをなかなか映像として出せませんでした。歯がゆさ、ジレンマはありましたね。

■大変な経験から学んだことは?
ボランティアというものは「何か他のことをする」と思われがちだけれど、そうではないんじゃないかと思うようになった。先生が炊き出しをするのではなく、板前さんが炊き出ししてくれたら、おいしい炊き出しになる。そのかわりに先生は、心のケアをしてくださったらいいのではないかと。
普段の仕事も、もっと社会と、一人ひとりと関わっているということを考えると、また違った放送ができるのではないかなと思うようになりました。

■川柳に応募!
自分なりに、震災を表現してみようと思いました。ちょうど川柳の募集をされまして、応募しました。今までに川柳を作ったことはありませんでした。
「冬の雲 仮設の窓に チマチョゴリ」
在日の方の取材をさせてもらった時に、部屋にすごく鮮やかなチマチョゴリがかけてあったんです。震災、被災ということを実感したのが、強烈な記憶に残っていまして、川柳を作ったものです。今も川柳を作っています。

■これから・・・
新しく入ってきた新入社員には、震災当時の映像を見せたりしています。当時のことをいろんな方法で知ってほしいなと思います。メディアは、発信し続けることだと思います。
地域でも、お祭りや催しで、「災害」というものひとつの目線で、やわらかいタッチでいいので、入られたらコミュニティが変わっていくのではないかと思いますね。
具体的に何か動いていくことで、新しいコミュニティができると思います。
新しい時代の、新しいメディアを十分に活用して、世界中に発信してもらいたいですね。発信しているということを「やってるよ」ということも伝えてほしいですね。

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2010年11月07日

10月震災時のラジオ関西での実体験「声の持つ力」、そして現在のコミュニティラジオFM三木の現場から

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10月のゲストは、震災当時ラジオ関西の現場におられ、現在はFM三木の放送局長でいらっしゃる山田健人さんです。聞き手の西條さんとは長いお付き合い。震災当日はスタジオで共に震災情報を放送していた仲間でもあります。


■コミュニティFM局
FM三木はH8年にできた局です。行政などが力を入れて、小さなエリアだけれども、確実に身近な情報を出せるメディアを作りたいという思いで作られています。コミュニティFM局は今、全国230局あります。
「FM局」というと、音楽をイメージされる方が多いのです。しかし、そうではなく、街の中のさまざまな情報を伝えよう、いざという時にみんなが親しみを持って、安心して聞けることを前提にした災害情報、安心情報を出していこうというのが大きな柱です。普段から、地域のこと、まちのことを頭に入れておくのが大事な仕事ですね。

■コミュニティFMの良さ
FM三木はガラス越しに見えます。戸を開ければすぐに誰でも入って来ることができる気軽な環境にあります。リスナーさんとは、身内みたいな関係です。コミュニティ放送は、24時間年中無休が最近多いです。大きなことがあった時に、普段聞いていないラジオ局はきっと誰も聞かないと思います。だから、24時間年中無休は、いつもひねってくださいね、というためにも必要なことなのです。

■阪神淡路大震災当時、山田さんは? ラジオ関西は?
当時、私はラジオ関西の報道制作局長でした。
ラジオ関西は、地震が起きてから、15分弱、放送は途絶えたものの、電波は生きていました。6時の時報が鳴ったとき、「入っている!」「放送ができる!」ということに気付きました。悲痛なアナウンスで始まったのが午前6時でした。第一声は、藤原正美さんの「喋りましょうか」という掛け声でした。
社屋は全壊しました。粉塵舞い上がる、ヒビの入ったスタジオからの放送です。凄まじい余震もありました。

■地震発生後、車で局へ
自宅までは、30分弱でした。車で垂水から山道を通って、離宮道のところから、海のほうを見ると、道沿いに毛布をかぶった人たちが見えました。「これは大変なことになったぞ」と思いました。
須磨区行幸町の本社へ。ラジオ関西は、CMなしで、放送を続けました。
最初は、何も情報がありませんでした。命からがら出社してきた社員を放送に出演させました。局に電話をかけてきた社員の情報も放送にのせました。


■災害対策本部の責任者として
災害対策本部をつくりました。本部長は社長ですが、大阪に住んでいて来ることができなかったので、集まった我々が実施本部を立ち上げました。

■リスナーさんからの安否情報・生活情報
泊まり明けの記者がいました。偶然、鹿児島の大水害の教訓を活かした南日本放送の講演会に勉強に行っていた記者でした。安否情報がいいのでは? という提案をくれました。
いつもリクエストを受けている電話7台を使って、午前8時から安否情報を受け付けました。731-4321は奇跡的につながっていました。紙を用意して、名前と内容を伝え続けました。
最初の一日はほぼ安否情報でした。次第に、安否情報のなかに、人工透析のできる病院、ガス漏れ、給水車などの生活情報が出てくるようになりました。
69時間CM抜き、夜中も休まず、ノンストップで放送しました。永遠と読み上げる仕事、ボランティアもたくさん来てくれました。吹田に住んでいた社長も、出社後は電話を受けていました。

■制作局長として気をつけたこと
裏が取れない情報であるので、あまりにおかしい情報は、放送しないようにしました。
気持ちは一つでした。キーワードは命。命を守る情報を被災地のど真ん中から発信しようと思いました。

■地べたを這う放送、それが良かった
高速道路の倒壊現場の記者は、トラックの会社名やナンバーを一つずつ読み上げました。1階が倒壊したマンションでは、つぶれた部屋の番号を伝えました。
火事で息子さんを助け出せず、絶望し歩いていたパン屋のおじいさんに出くわした記者もいました。こんなシーンはいくらでもありました。一つ一つに「大変ですね」って言えない。事実を、具体的なものを積み重ね、淡々と伝えることしかできないのです。

■今後の災害に備えて、これからのコミュニティ放送は?
災害時には、的確な情報が必要です。やはり、これにはかなりのキャリアと体験が必要だと思います。しかし、コミュニティ局には、スキルを熟練する機会があまりありません。これが、心配なところです。
JCBA(日本コミュニティ放送協会)の近畿の集まりに私どもも入っています。近隣の5〜6局を集めて、災害時の支援協定を結んでいます。
コミュニティ放送の強みは、地元を良く知っていること(人、地名など)。普段は、どんな番組でもいいから、聞いてもらえる放送が大切です。そして、放送局と地域の人との信頼関係を積み重ねていくことが大切だと思います。

posted by FMYY at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月10日

9月ゲストは料理講師の正路ゆかさん。食を通じて楽しい気持ちに!

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9月のお客様は、料理講師の正路(しょうじ)ゆかさんです。
正路さんは、FMわぃわぃでも「Yukaのグローバルクッキング」という番組をもっていらっしゃいます。ご自身の震災体験をお話していただきました。

世界中の料理をいろんな方々に教えている正路さん。「国際クッキングクラブ」という料理クラブを主催。また一方では、外国人講師を招いて毎月違う国の家庭料理を習っており、世界の料理についての研究にも勤しむ毎日。このクラブも震災前から始めたもので、もう17年になるそうです。


■震災時どうされていましたか?
住まいは、細田町の工場地帯でした。工場の事務所の上が家でした。金型の工場でした。金型とは、運動靴や長靴の底の模様(すべらないようにする溝)です。細田町は、お亡くなりになられた方もいましたし、ほとんどの家が全壊でした。
わが家は、壁が2本落ちて、ガス管だけで止まっているような状態でした。母は枕元にたくさん置物(お土産とか)を置いていて、たまたま遊びに来ていた母の姉にガラスのエンゼルフィッシュの置物が鼻先をかすりました。傷は浅くてすんだのですが、顔中血だらけですごくびっくりしました。日頃から高いところに物を置かないように言っていたんですが、ことが起こってみないと現実味がないですもんね。

■震災後、生き方や考え方、行動に変化はありましたか?
周りの状況から考えると、「もしかしたら自分は死んでいたかもしれない」ということが一番大きいです。姑が厳しい人でしたので、震災前は、外に出かけることもあまりありませんでした。でも、震災後、自分が自分らしく生きて生きたいと思うようになりました。料理講師をしたり、会合に出たりするようになりました。最初は、どこに行くの?誰と会うの?と姑に事細かに聞かれていましたが、私の中に、吹っ切れたものがあったので、姑にも伝わったのではないかと思います。
食べるものって思いや愛情が伝えたい相手に確実に伝わります。これをみなさんに伝えたいと思って講師をやっています。

■震災時の食事は?
ある程度のストックみたいなものはありましたけど、冷凍していたものなどをうまく使いながら料理していました。
避難所では、病気になられた方もいらっしゃいましたね。食事に気をつけないといけない糖尿の人は特に大変だったと思います。冷たいお弁当や、甘いジュースしかないこともありましたし、やっと配給されたのがあんぱん、だったりしましたからね。

■当時ご家族は?
私たち夫婦と姑の3人でした。震災で弟の家に避難して、7人で暮らしていました。

■「いざ」の時の心構えはありますか?
「何が起こっても大丈夫な覚悟」が必要だと思います。
口蹄疫、鳥インフルエンザ、洪水・・・ありとあらゆる危険の中で、何が起こってもおかしくない世の中で私たちは生きていますから。

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■「国際クッキングクラブ」をはじめたきっかけは?
「神戸に住んでいて、外国人に外国料理を習いたい!」とずっと思っていました。偶然インド人の方に出会いました。料理を教えることによって、その収益を母国の自分の村で小学校を作りたいという夢を持っている方でした。それで協力しようということになって。

■「国際クッキングクラブ」はどんな教室ですか?
月に1回で、年10回開催しています。なのでもう100回を超えています。中近東のイラン料理やレバノン料理にも挑戦しています。
辛すぎるから薄めたり、日本人の口に合うように味付けを変える、というようなアレンジをしないで、家庭料理を教えてもらうようにしています。世界中の人たちが毎日「おいしい」と食べて、思っているものなんです。慣れていないだけで、私たちにとっても「おいしい」はずです。
神戸は、食材もそろいやすいというのも17年間続けてこれた理由ですね。
長田高校の向かいの池田会館というコミュニティハウスでやっています。人数はいつも20人くらいですね。公募はしていないんですが、いろんな人に参加してもらいたいですね。いつも第4水曜日にやっています。9月はイラン料理です。
7月はエジプト料理で、なすのサラダをしました。焼いたなすに、すっぱいドレッシングをかけるサラダです。暑い国ならではのお料理ですね。

■FMわぃわぃでもおなじみの「グローバルクッキング」。どんな番組ですか?
15分くらいの番組です。吉富さんとかけあいで毎週いろんな国のお料理を紹介しています。

■どんなお料理がありますか? 紹介してください!
夏にさっぱりサラダ。カニの缶詰やブラックタイガーなど魚介と、いろんな野菜を(ゆでたり、生で)サイコロ状に切ります。生クリームとマヨネーズをそれぞれ大さじ2杯ずつ、塩コショウで和えます。とてもさっぱりとしたご馳走なサラダです。
主婦なので、何g、何tというよりは、大さじ1杯とかカップに半分とかアバウトな感じで伝えていますね。

■今の生活は?
本当に楽しいです。生きててよかった!
食を通じて楽しいとか、思いは食べるものに込められるとか、人呼んでホームパーティしてねとかよく言うんです。パーティっていうと、「ご馳走出さなきゃ」ってハードルが高いと思われがちですけど、楽しいパーティできますよって常に言ってます。それが、普段のご近所付き合いにつながって、大きな災害にあった時も助け合えますね。
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2010年08月01日

8月神戸松蔭女子高等学校放送部〜”すきま”を埋めて〜の担当のみなさんを迎えて

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8月のゲストは神戸松蔭高等学校放送部の5人をお招きしました。
3年生の岡田佳奈さん、島野朱眸(あけみ)さん、平尾祥子さん、1年生の屋敷夏希さん、栗木美咲です。3年生の3人にお話していただきました。


■番組のタイトルは?
島野:「“すきま”を埋めて」というタイトルの番組です。震災の番組を考えていくうちに、神戸の方々の心がどんどんすきまができていっているなという感じがしました。そのすきまをうめていきたいという願望もこめています。

■番組作成のきっかけは?
島野:震災関連番組の班のメンバーは今日来ている5人です。震災関連番組のメンバーは、やりたい人が集いました。私はその班のリーダーをしています。ほかにも、NHKコンクール出展に向けて、「なぜ人は笑うのか」「性同一性障害」「ドラック」というテーマにラジオ番組やテレビドラマを作成した班もあります。
平尾:震災の時は1歳でした。震災のことは小学校のときに少し習ったことがありました。家の近くの跡地なども気になるようになりました。

♪では、実際に「“すきま”を埋めて」を少し聞いてみましょう。
2010年1月17日私たちは、1.17の集いに参加しました。この日で震災から15年が経ちました。
生まれて間もなかった私たちには記憶がほとんどありません。神戸の高校生は、震災に関してどう思っているのでしょうか。
「5月?6月?」「震災あった日っていつ?」「そのとき生まれてなくてよかったと思いました。」神戸の高校生は震災について無関心です。本当に震災は忘れられようとしているのでしょうか。
1.17の集いで被災者の人にも聞きました。
「震災を体験している人が減ってきた感じがする。通じない。でも忘れてはいけない。」「2ヶ月半ほど板宿小学校で避難してた。それから体調を崩して1年寝たきりだった。」「2階だけ残った。1階に寝ていた母と子どもはぺしゃんこ。」「私もう取材受けたくなくてね。」

■インタビューはどうでしたか?
岡田: 100人くらいにインタビューに行きました。被災された方はみんな知っていると思っているし、若い人は知らなくて当たり前と思っています。心の考え方の違いは感じました。
平尾:1月17日の東遊園地では、インタビューにすぐに答えてくれない方もいました。難しかったです。震災を体験しているのとしていないのでは、ぜんぜん違うと思いました。

■取材の中で、しんどかったことは?
島野:やはり軽いテーマではなかったので、インタビューの中で、家をなくした方などにも出会い、自分たちがどれだけ震災について考えていないかを実感しました。自分たちがまず変わらないといけないと思いました。

■どんな方に取材しましたか?
岡田:当時の様子を取材されていた神戸新聞社の方や、被災地に救助に行かれた自衛隊の方にもインタビューをしました。
平尾:苦労話は今までに聞いたことがなかったので、そういう話が伝わっていってないんだなど思いました。


■7分のラジオ番組の制作過程での苦労は?
島野:いっぱい良いインタビューがあったので、心に残ったインタビューをピックアップしていきました。それでも、多すぎて、せっかくインタビューしたのに・・・っていう感じでした。

♪「“すきま”を埋めて」後半部分を聞いていただきましょう。
大人は、
「あの瞬間を経験してない限り、同じ感覚を共有することはできないと思う。」「若い人は他人事と思い込んでしまうのかな。」「仕方ないことかもしれないけど。」「薄れてきてるのはしょうがないかなと思う。押し付けるのも変な話やし。」
『仕方のない』という言葉で済ませています。それによって、私たち若者は無関心になっていくのです。
阪神淡路大震災を知ろうとしない若い人たち、
15年経ってもまだ辛くて伝えることができない被災者、
若い人に対して「仕方がない」で済ませている大人。
3つの思いがばらばらになって、今の神戸では心と心のすきまが広がっています。
震災の直後のように、お互いがお互いに関心を持つことが、私たちがするべきことです。心と心のすきまを埋めていきたい、これが私たちの思いです。

■普段の部活動は?
島野:松蔭は、お昼の放送がありません。いつも番組制作やイベントの司会などをしています。

■NHKコンクールの結果はどうでしたか?
島野:県で3位でした。同校の「ドラッグ」をテーマにした作品が準優勝を受賞しました。同校から2作品は全国大会に出せないので、震災の番組は全国大会に行けませんでした。賞が欲しいとかじゃなくて、いまの神戸を知ってもらうために全国大会に行きたかったです。

■友達や家の方にも放送番組を聞いてもらいましたか?
岡田:家の人に聞いてもらいました。若い人の考え方と震災を経験した人とのギャップにびっくりしていました。
平尾:学生が震災の日を覚えてないというのがびっくりしていました。

■この番組を通じてプラスになったことは?
平尾:こんなに神戸の中で、思ってることが離れてると思っていなかったので、それを知れてよかった。すきまを埋めていくためにも頑張りたいです。
岡田:自衛隊とか普通に生活していたら行けないところなので、そのような方にも取材協力してもらえてよかったです。
島野:この震災番組だけでなく、ほかの番組も作っていて、普通の高校生ではできないことをしたりできました。普段考えないことを番組作成を通して、世の中に目を向けられたというのは良かったと思います。

■3年生のみなさん。卒業後、将来の夢は?
岡田:将来は幼稚園の先生になりたいです。でも結婚式とかの司会はしてみたいな。
平尾:私も幼稚園の先生になりたいです。
島野:将来の夢は、番組を支える役になりたいです。
posted by FMYY at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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