2011年5月のゲストは、特定非営利活動法人エフエムわいわい代表日比野純一さん
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■東日本大震災、FMわぃわぃの活動
3月11日以降、臨時の災害FM局がたくさん立ち上がりました。また、もともとあったコミュニティ放送局が出力を増大して臨時の災害FM局として放送をしています。災害FM局は、災害情報、救援情報、復旧情報などを流しています。そのラジオ局を通して、被災地支援をするというのがFMわぃわぃの活動の一つです。
16年前と比べると、災害FM局に対して法律も柔軟に対応しています。東北総合通信局の方は、電話一本でラジオの認可をしているとのことでした。臨時のFM局の期間は通常2〜3ヶ月ですが、状況を見て放送を続けていく、ということでした。
■放送局を立ち上げ、広げていく中での一番の苦労
16年前、災害が起こって、災害ラジオ局を立ち上げました。最初の1、2ヶ月は「やらなきゃいけない」という気持ちや勢いもあるし、人も沢山いました。でも、何ヶ月か経った時に、続けていく体力ですよね。人のマンパワーと経済的な持続力です。
東北の人たちも、今、放送をしているのは、被災の大きくなかった地元の人たちです。彼らは、復興の段階で、いずれコミュニティ放送局になったらいいなと思っています。ただ、今は、「今日のこと」「明日のこと」で頑張っている状況です。この状況で、いつまで続けられるかというところですよね。
中央募金会に寄せられた支援金があります。地元の人たちがグループを作って申し込みをしたら、300万円まで救援活動にあてることができます。その中に、コミュニティFMも明記されています。社会的に続けていくためのお金も必要だという位置づけができてきたということだと思います。
■被災地はまだ強い余震も続いていて…
現地は、本当に大変です。初めて訪問したとき、目を疑いました。現地は、まだ強い余震がしばしば起こっています。災害FM局は、緊急時放送の役割も果たさなければなりません。神戸の場合、1、2ヶ月経った頃には、復旧の活動などの情報を流していくという比重が高まっていました。東北では、復旧の情報も流していますが、緊急時のことも常に考えているような状況です。東北の人は、「ラジオの台数がいくらあっても足りないんだ、一人一人が持ってもらうような形がいいんだ」と言っていましたね。
■臨時災害FM局は
臨時災害FM局は、市町村など役所に認可をおろします。市や町の役場の職員が放送をするわけではありません。地元の商店街の人たちだとか、活動が出来る人が寄り合って放送をしています。市役所の一室でしているところもあります。市役所の空き地にプレハブを建て、生活相談の隣でしているところもあります。市役所のフロアで罹災証明を発行している隣で放送しているところもあります。
■自分たちの言葉で 自分たちのまちを伝える
亘理町の臨時のラジオ局の話です。亘理弁で民話を朗読する時間があって、避難所でおじいちゃんやおばあちゃんが楽しみして聴いているそうです。自分たちの言葉で、自分たちのまちに伝わったものを流したいという、地域の放送局ならではですね。阪神大震災の時に、FMわぃわぃのもとになったラジオ局が、民話や民謡を流していたのと同じですね。
■震度6強の余震「防災とラジオ」
4月7日、震度6強の地震を宮城野区のビジネスホテルの8階で感じました。すぐ停電し、テレビはふってくる、風呂の水が出てくるような状態でした。懐中電灯を探して部屋から出ました。危ないので、ラジオをつけながら、非常階段で1階まで降りました。ラジオをつけたら、同じホテルに泊まっていた方々がラジオに寄ってきました。「防災とラジオ」ということを今までいろんなところで10数年、言ってきましたが、身をもってラジオの力を実感したのは初めてでした。ものすごく安心感がありました。夜はラジオが大きな支えになりますね。
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■東日本大震災と多言語放送
FMわぃわぃは、震災当時5言語でしたが、現在は10言語で放送をしています。
神戸というと外国人の方が多いというイメージがありますね。東北はどうなのかな?と思っていました。今や、日本全国、農村に行けば花嫁さんとしてアジアから来ている人がいたり、研修生として水産工場で働いていたり、隅々まで外国人の方がいらっしゃいます。ただ、固まっているわけではないので、「ラジオ局の方の意識もそこまで高くないんじゃないか?」と思っていたんです。
でも、電話をしてみて、いい意味で裏切られていました。私たちが、「多言語の放送のCDを作ってお渡ししますよ」と申し出ると、「もうすでにやってますよ」という答えが返ってきたり、「自分たちの地域には中国の人たちいるので、言葉が分からなくて、つらい思いをしていると思うので、流したいです」と言われたりしました。
■長田の英知が詰まった多言語情報CD
被災地の状況を多言語の音声情報にして、いろんな言語にしているCDです。災害FM局でCDプレイヤーにかけるとその情報が被災者に届けられるという仕組みのものです。阪神淡路大震災以降、積み上げてきたものです。
始まりは、96年の4月に長田区の消防署に勤めていらした人の一声でした。「カセットで、ボタン一つでいろんな言語の情報が流せるようなのが、ラジオ局に備わっていれば、何かあった時に、すぐ流されるじゃないか!」と。あらかじめある程度のものを作っておいたもの、災害が起こってから新たに情報を足していく仕組みなど、10数年やってきたものが、今回非常に役に立ちました。
■神戸から、新潟そして東北へ
2004年10月の新潟県中越地震のときにも、多言語放送はありました。新潟にも、多くの外国人がいました。「何が起こっているかわからない」というニュースが届いたので、現地のFMながおかに、連絡をとりました。「新潟から情報を送っていただいたら、神戸で翻訳して、音声にして送ります。」と申し出ました。「30分でもいいから、多言語の情報を定時で流してほしい」とお願いしました。FMながおかは、3ヶ月間くらい放送してくれて、多言語放送の必要性を感じてくれました。
FMながおかも同じ被災地のラジオ局として、今回の震災の臨時FM局立ち上げの手伝いをしていました。そのときに、「多言語放送をしなさい」「そこに外国人がいるなら、出演してもらったらいいから」と伝えてくれたそうです。嬉しくなりましたね。
■地域の復旧、復興を考えて いろんな人と話しながら…
被災地の災害FM局に行くと、阪神淡路の被災地からやってきたことを喜ばれ、何もないところから素人で、情報を伝えなければ、とラジオを始めた仲間として話してくださいと言われました。
ある曲をかけても、「なんでこんな曲を流すな!」と言う人もいれば、「この曲を流してくれてありがとう」と言う人もいます。いろんな声が寄せられます。いろんなことを考えたら何も出来なくなります。地域の復旧、復興を考え、いろんな人と話しながら、自信を持ってやってくださいということを伝えました。
■事前の備え 知見や横の繋がりがいきる
被害が甚大で、自分たちの無力感は被災地に行った瞬間に思いました。でも、一人一人、被災地の人たちと話をすると、やはり事前に備えをしていた者は、同じ災害が起こってそこから始まったとしても、スピードやネットワークや知恵が全然違うと思います。
震災直後、ボランティアを控えるようにという風潮がありました。しかし、石巻専修大学は、全国から1日1500人くらいのボランティアがテントを張って生活していました。校内を開放して、駅からのバスを運行して、積極的にボランティアを受け入れていました。この大学は、いずれ津波や災害が起こることはわかっていたので、職員を様々な被災地に派遣して、自分たちに何ができるか研究をしてきていたそうです。事前から備える、いろんな人とつながっていくことがいかに大切か、身をもって感じて帰ってきました。