2010年07月11日

7月災害時ラジオ関西のスタッフとして情報の必要性を実感!そして減災への提言。

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7月のゲストは、2010年3月までラジオ関西局員だった吉田秀子さん。ラジオ関西の同じ放送仲間である西條さんと情報伝達という観点でのお話をしていただきます。


■震災当時は?
「ま〜るい地球と…谷五郎モーニング」のパートナーで水曜日と木曜日を担当していました。震災は火曜だったので、私はまだ家にいましたが、すぐに西神中央駅まで行きました。しかし、地下鉄止まっていて、家に戻りました。局へ電話がつながったので、レポートを入れました。3、4人で乗り合って、須磨離宮公園まで来ました。松もマンションも家も倒れていました。

■ラジオ関西のスタジオ(須磨)に着いて
見てきたことをスタジオですべて話しました。スタジオの分厚いガラスも壊れ、蛍光灯がブラブラと揺れていて、ラジオ関西も全壊状態でした。危険な状況だったけど、みな使命感に燃えていました。
その後、板宿や長田にも足を運んでレポートしました。「どうして神戸なの?」と本当に思いました。


■震災の時、ラジオ関西は?
69時間続けて震災情報を流しました。CMを流さない運営できない、いつから通常放送に戻すか悩みました。営業の人、経営者みんな葛藤がありました。松下電工などのCMもあったが、リフォームなど夢のある話ばっかりでした。会社名だけにするなど営業の人にかけあってもらったこともありました。

■神戸市役所に取材に行って
全国から放送局のクルーがわんさか来ていました。私たちは震災ルック、そこでまず違いがありました。被災者目線で、被災者の役に立つことを放送しようとしていました。でも、東京などから来た記者は、明らかにネタになるようなことを探していました。すべてがそうでないとしても、取材に対する意識が違うように思えました。

■リスナーから寄せられる情報
入った情報を検証している時間はありませんでした。「ブルーシートは○○に行けば手に入ります」など、2、3週間くらいは、「困っている人のために…」という共通の思いが社会全体にあって、正しい情報が伝えられていたと思います。でも、ある時期を過ぎると、「女の子だけなら預かれます」など、眉唾ものの情報も増えました。

■最後に
FMわぃわぃは、ラジオ関西より、もっともっと地域のことが分かっている放送局です。こちらから「○○さんの安否はいかがでしょうか」という安否情報の呼びかけができるのではないかと思います。そのような地域との密着性が強みだと思います。
普段から信頼されていないと、「放送局で、この情報を流してほしい」とは思ってもらえません。災害時、こちらから取材にいける範囲は限られています。だから、情報が集まってこなければ意味がありません。そのためにも、普段からラジオを聞く習慣をつけてほしいと思います。
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2010年06月08日

6月災害を通して学生と学びたいという夢を3年前から神戸常盤大学で実現!

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6月のゲストは畑 吉節未(はたきよみ)さん神戸常盤大学保健科学部看護学科で在宅看護を教えて今年で3年目、そしてご自身は、神戸大学大学院保健学研究科博士課程在学中です。


■震災のときは…
長田で、教員をしていて11年目でした。震災の時は、ちょうど加古川に転居したところでした。私は、西神のほうから車で学校へ来ました。自転車に乗って学生の安否確認をしました。一番は学生のことを考えていました。私の学校では、2人の学生が亡くなりました。
神戸に行くと大変な状態がありました。でも、加古川に戻るにつれて、普通の日常に戻ります。その間を行き来することがとてもしんどかったです。

■看護師として
看護師として、その狭間を埋めるために、「震災での看護を経験した人に話を聞いて、伝えたい。風化させないために、教育に取り入れていきたい。」と思っています。ライフワークとして、できるだけ聞いて伝えていきたいと思っています。


今まで、35、36名の医療関係者の方に聞かせていただきました。

■阪神淡路大震災 看護師の話
1月17日、新しい命が生まれました。その日、その赤ちゃんのお姉ちゃんが遺体で運ばれてきました。この時に、看護師さんは、そのお姉ちゃんにできるだけ綺麗な色のゆかたを着せ、お母さんの傍らに新しい命、もう一方に別れゆく命を添い寝させて、「一晩過ごしてください」と告げました。お母さんは泣き詰めでしたが、翌朝、「別れの時を持つことができて、ありがとうございます」とおっしゃいました。

■福知山線脱線事故 ドクターの話
最近の災害現場ではトリアージが行われます。黒タグは助かる見込みがないとみなされるので、我々ドクターは見ません。でも、看護師は、黒タグに近づいて、泥を払ったり、目を閉じたり、衣服の乱れを直したり…そこにもケアがあるということを教えられました。看護師は、「マスコミからご遺体を守った。できることはそれしかなかった。」と言っていました。そして、お亡くなりになられた時間を書き残しました。「物が壊れたのではない。一つの命、家族にとって、それはとても意味のある時刻なのです。」と話したそうです。

いろいろ聞かせていただいたことができるような看護師になるためには、どのような教育が必要なのかを考えることが私の使命だと思っています。
昨年度の看護学会の優秀論文賞を受賞しました。私は、神戸大学の保健科学の博士課程の学生でもあります。受賞論文は、博士論文。震災の語りの中に看護の本質があるので、それをまとめたものです。研究のための研究ではなく、実践のための研究であるために、頑張っていきたいと思っています。
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2010年05月08日

5月震災直前留学先から帰国。98年留学終了と共に始まった震災復興支援。

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5月のゲスト 関西学院大学准教授 関西学院大学災害復興制度研究所研究員 山地久美子さん


■災害復興制度研究所
震災10年、2005年に災害復興制度研究所ができました。災害復興に焦点をおいています。
私は研究員として国際連携を担当しています。最近も、チリ、中国、ハイチなどでも大きな地震がありました。昨年は、台湾、中国などの方をお招きして講演会をひらき、ネットワークをつくってきました。

■災害復興とジェンダー
震災時になくなった方に高齢者の女性が多かった。年金が少なかったことが影響しているという考えもあります。だからこそ災害に備え、普段から生活を見直すという考え方が必要です。

■生まれは東京、神戸育ち
私は、小学校のとき神戸に来ました。東京はよく地震が起こるので、学校には「防災ずきん」を持って行き、座布団にしていました。災害ということを常に考えていました。こっちに来ると、そんなことはなくなり、意識の違いを感じました。

■震災時は?
北区の自宅にいました。被害も小さく、築1、2年の家にいました。当時、私は、ハワイに留学していましたが、姉が飯田美奈子というオペラ歌手で、アルカイックホールで出演するということで、日本に帰ってきていました。震災1週間後には日本を離れました。私は、震災は経験しています。また、そこにずっとは、いなかったので、客観的に見ることができる部分もあります。災害復興を研究するという上で、このことは、プラスになっていると思っています。

■日常的な問題に備えることが災害復興につながる
国際的なジェンダー比較にも今後取り組んでいきます。情報発信がいかにできるかということも大切になってきます。FMわぃわぃはじめ、新聞社の方などにも入っていただき、ご意見をいただこうと思っています。社会的な状況、男性は男性で、女性は女性でそれぞれに抱えた問題もあったと思います。また、日常の問題が、浮き彫りになってくる例もあります。「事前復興」という言葉がありますが、日常的な問題に普段から備えることがいまの災害復興で大きな位置を占めています。


■さまざまな社会活動
多文化と共生社会をはぐくむワークショップ代表、NPO法人神戸まちづくり研究所の副理事長でもあります。アメリカのLAやシアトルに住んでいて、そのときに差別を受けたことがあります。その反面で、アメリカでは権利や保障も厚いです。1998年に日本に帰ってきて、それを受け入れる体制がなっていないことを感じました。音楽家、都市計画家の方など8人とグループをつくって、日本人へ向け、料理教室や映画会などをしています。ブラジルの移民100周年の時には、兵庫県と共同で音楽会を開催して、ブラジルの音楽家を招きました。高齢の方が多く参加してくださって、日本のことも伝えたいという感想もあり、場を提供していくことが、大切だと感じました。
私のポリシーとして、社会活動は、こちらも、むこうも構えてしまうので研究対象としません。研究テーマは家族ですね。少し関係があるといえば、ジェンダーと災害です。社会活動を研究に還元して、研究を社会活動に還元してという感じです。

■コレクティヴハウジング
個人生活も団体生活もできる。みなさん年をとってきて、いろんな問題を持っています。また、災害時のペット問題。公営住宅は、ペットと一緒に暮らせません。でも、兵庫県も神戸市もペット可の公営住宅を作りました。結局のところ、ペットを家族として認めるかどうかという問題です。

■最後に
家も、仕事も、人間関係も、すべてが災害につながっています。それらの問題が大きく出るのが災害だと思います。自然災害は、災害だけれども、復興は政治的現象。一人ひとりの力も大切ですので、日常的な力をつけていくということが大切だと思います。
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2010年04月06日

4月震災の2月から4月までの震災ボランティアから始まった神戸とのつながり

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2010年4月のゲストは、長田区社会福祉協議会主事長谷部治さん
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西條さんのFMわぃわぃでの番組に、震災時学生ボランティアだった長谷部さんが、長田区社会福祉協議会職員になったということで、ゲストととして向かえてから15年目。なんと本日が2回目の出会いとなりました。

ボランティアセンターで活躍中の長谷部さん。FMわぃわぃで番組を約7年、毎週火曜日に担当している。ボランティアセンターの番組で、区内の市民活動や、ボランティアに関わることの情報を提供している。災害の際、現地から電話で生中継したり、といったボランティア活動、市民活動をサポートするような番組にしたいと思っている。

長谷部さんは岐阜県出身。神戸に来たのは震災直後。震災のころは鹿児島経済大学に通っていた。震災の時は3年生。仲間と「何かできることはないか」と話し、1週間後くらいに神戸に来た。車にテントや炊事道具、介護用品一式を積んできた。長田区役所付近に8人用のテントを2つ張り、ボランティア活動をスタートした。15年前にしては用意が良かったが、それは鹿児島県の社会福祉協議会に相談し、「現地は水もなにもないので全て持って行く必要がる」との情報を得ていたから。現在は社会福祉協議会が現地のボランティアセンターをやる、相談の窓口をやる、などはほぼ決定事項だが、当時はそういう仕組みがまだなかった。
結局、大学の4年生のうち、3分の1くらいを神戸にいて、夏休みはマイカーで寝泊まりしながら滞在した。鹿児島と神戸を10数回往復した。
当時の具体的なボランティア活動の内容としては、
避難所から仮設住宅への引っ越しのコーディネーター。要望を聞いて、荷物の量を確認して、トラックを手配して、ボランティアさんに行ってもらって、人数わりをしたり、夏場はそういう作業が多かった。長くいる人は運営(コーディネーションなど)を担当した。現場を経験した上でコーディネーターすることは大事だし、災害時は現地に着けば情報が変わっていることもある。現地判断の大切さも伝えないといけない。


震災で神戸に来て、以来、神戸に住むことになった長谷川さん。大学卒業の時にたまたま、社会福祉協議会に入ることになりました。ボランティアセンターがオープンした年に入りました。ボランティア講座をし、ボランティアさんを集めて、活動を推進していくという団体です。

一般的には、ボランティアは居住地の近くでやる場合が多いですが、95年当時の神戸の担い手は地域外の人でした。なので、道案内をする必要があったりしましたが、新潟でも佐用でも、事前にインターネットで道を調べてきてからやって来るなど、状況は変わってきています。

共感には2種類あります。1つは他者への共感です。もう1つは自分自身への共感です。その行為が自分の勉強や経験になります。どちらか一方に偏り過ぎていてもだめです。「行ってあげる」だけではだめで、その両面がないと上手くいかないことが多いです。
震災後の神戸は「共感」をもう一度見直さないといけないと思っています。
通常のボランティア活動は「こんな活動をして欲しいと」紹介する時、共感を求める作業が存在しています。
神戸の場合、そういう「共感」が当たり前のように思ってしまっている部分もあるので、問い直した方がいいと思っています。

他に大事なこととしては、感情として3つあるということです。
@共感(他者への共感、自分への共感)、A(活動内容の)理解、B納得
このことは、コーディネーターとして仕事を紹介する時は、依頼者の側にも活動者の側にも、説明をさぼってはいけないと思っています。

現在、長田のボランティアセンターとしては、住民から電話をもらって「助けが欲しい」という要望に答えるといった、一般的なケースの他に、ボランティアセンターから仕掛けていくような活動もあります。団体と団体を紹介して、ネットワークを作ることなどです。そうしたことを「目的別」にやっているのが長田の特徴だと思います。「こういう活動をしたいと思います」という「目的」でプロジェクトチームを作ります。そうすることで普段だったら繋がらない職種の人が集まることができると思います。
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2010年03月03日

3月たかとり救援基地、そこから始まった市民活動、奇跡は人間が起こすもの。

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2010年3月ゲストカトリック大阪大司教区 教区本部事務局長 神田裕さん 
NPO法人たかとりコミュニティセンター代表
前カトリックたかとり教会主任神父

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(カトリックたかとり教会内にあるFMわぃわぃスタジオの前で、NPO法人たかとりコミュニティセンターの事務所が入っている敷地の一番奥にある聖堂前のキリスト像をバックに(左)神田神父(右)西條さん)


**震災の時救援基地になったカトリックたかとり教会、たくさんの人々が救援基地の「たきび」を目指してやってきた。
現在は「たきび」というメールマガジンを全国に配信している。
2010年1月17日の15年目を迎えた「たきび」の中から神田さんの文章を添付します。
<かんちゃん日記>
- 震災とキリスト像とベトナム人 -
震災で焼失した長田のまちの片隅に教会がある。
カトリックたかとり教会だ。焼け残った奇跡のキリスト像で話題になった。何が奇跡かと言うと、キリスト像が火を止めたというのである。
まさかそんなことはない。
キリスト像は1992年にベトナムから船に乗ってやってきた。
いわばボートピープルだ。不審物の疑いがあると1カ月ほどは港から出してもらえなかった。やっとのことでたかとり教会にやってきた。
たかとり教会に最初のベトナム人家族がやって来たのは1980年のことった。ベトナム脱出を何度も失敗し投獄され、やっとのことで日本に、そしてたかとり教会にやってきた。
ちょうど15年たった1995年1月17日早朝、大きな揺れに揺り起こされ、気が付いたら潰れた家もろとも外に放り出された。貧しい家に住んでいたから自分の家だけが突然潰れたと思い、その瞬間子どもたちはとても恥ずかしかった。幸い家族みんなの命は助かった。

当時たかとり教会のベトナム人たちは信徒全体(約650名)の三分の一程になっていた。みんな家や職は失ったものの命だけは助かった。被災者はみんな、学校の校舎や公園のテントで生活をした。ベトナム人たちももちろん同じだった。ただ言葉や文化や習慣の違いで別の苦労もあった。

そんな彼らと共に歩もうと、全国から多くのボランティアの人たちが駆けつけてくれた。言葉のハンディや文化や習慣の違いを一緒に担ってくれた。教会の中に救援基地ができ、震災復興や新しいまちづくりに力を尽くしてくれた。震災情報の通訳、翻訳、そして電波を使っての多言語情報伝達FM放送局へと発展していった。地域のお祭りでもベトナム料理が食べられるようになり文化も少しずつだが浸透してきた。

救援活動からまちづくりへとの思いを持って、2000年にたかとり救援基地はNPO法人格を取得し、たかとりコミュニティセンターとなった。2007年5月には教会建物もようやく再建され、その中にNPOセンターやFM放送局も共存している。多文化なまちづくりの新たなスタートが始まっている。

つい先日、たかとり教会で一人のベトナム人女性が帰天した。くも膜下出血での突然死だった。子どもたちのために働き続けたのに、小学生の末っ子を含め4人の子どもたちを残して神様の元へと行ってしまった。彼女が小学生の時、ボートピープルとして親に連れられ命からがらこの日本にやってきた。神様に守られて命があることに感謝した。それから15年目に震災にあった。家は潰れたが、やはり神様に守られて命があることに感謝した。それから15年。神様は「ご苦労さん、もういいよ」と言って彼女を身元にお呼びになった。まだ若いのに何故に「もういいよ」なのかは私には理解できない。

たかとり周辺のまちづくりにとっては色んな意味でベトナム人たちの存在はとても大きい。彼らを取り巻く人々の力がこの地震の後のまちを支えてきたと言っても過言ではない。彼らがたかとりに住み始めてちょうど30年たち、震災を挟んでちょうど折り返し地点に差しかかった。これからは2世、3世たちが新しい時代を創って行ってくれるのだろう。

キリスト像が奇跡を起こしたと騒がれた。そんなことはないと自ら否定した。
しかし15年たった今、もし問われることがあったとすれば、きっと言うだろう。キリスト像は奇跡を起こしたと。30年前に船に乗って私たちのところにやってきたベトナム人たちは、本人たちの意識のせぬところで、たかとり、そして神戸のまちづくりの大切な要素になっている。

キリスト像の台座にはベトナム語、韓国語、日本語で聖書の言葉が刻まれている。「互いに愛し合いなさい」と。お互いを大切にし合って関わるならば、きっと奇跡は起こるのだと確信している。

2010年1月17日。私たちは震災から15年を迎える。     神田裕

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2010年02月01日

2月震災時地域のコミュニティの要としてのお寺。その役割と震災後の復興の取り組み。

2010年2月のゲスト

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兵庫区済鱗寺のご住職明石和成さん
(写真は震災後宗教というボーダーを越え、神戸にある多様な宗教者達との連携をもつ、、という意味も込めてカトリックたかとり教会のキリスト像の前で(左)西條さん(右)僧服の明石さん)

◆トーク1

震災当日、地震が起きる前にネズミが騒いでいたので起きていた。そのおかげで直後の対応ができたので、ねずみのおかげで助かったとも言えるかもしれない。
お寺は本堂の屋根がずれたり、二重の扉が外に飛び出したりした。
現在も本堂は仮設のまま。震災関連の事業などで募金をたくさん集めているが、自身のお寺の再建などには使っていない。
具体的な活動の例としては、小さい仏壇を安く仕入れて、仮設に移る人に無料で配布したりした。

お寺は震災時、炊き出しもした。
近所のお好み焼き屋さんが前日に仕入れをしたばかりで、冷蔵庫にたくさん食料が入っていた。それを材料にして、1週間くらい炊き出しを続けた。

明石さんは神戸青年仏教界のメンバーでもあり、理事長をやっているし、震災後もさまざまな活動をしている。
「市民による追悼行事を考える会」(明石さんは発起人の一人)は震災後、5年目からスタートした。
◆トーク2
大阪の寺から紹介され、草津さんという牧師さんと出会ったのをきっかけに、ロウソクの追悼行事などもキリスト教と仏教と神道と、合同でやることになった。7000本のロウソクを使用した。亡くなった人の名前を書いたロウソク台を作った。

仏教とキリスト教、神道のつながりは現在も続いている。「震災を生きる宗教者の集い」を開催していたり。
宗教者が何ができて、何ができなかったか、ということを問い続けることが大事だと思う、そういうことからのネーミング。その中で生き行くという意味。キリスト教と仏教と同じところ、違うところを理解しようと思ったら自分のセクトを勉強しないといけない同化することはないが、協力し合える部分もある。

震災後、すぐに敷地を解放して、避難所になった寺もあったし、閉鎖してしまったところもあった。檀家さんを中心にした組織なので、檀家ではない人にも広く解放するかどうか、という部分で反省もある。

震災のアドバイスとしては「家具を固定する」。
亡くなった方は家具の下敷きになった人が多いので、家具を固定することが大事。また、火災保険と地震保険は違うといったとも覚えておいたほうが良い。

子どもたちには、「知らない」ということを知って欲しい。それが「気づき」になる。体験した人から教えてもらうは大事。
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2010年01月26日

2010年1月神戸常盤大学学生自治会のよる佐用への募金活動

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2010年1月のゲスト
神戸常盤大学看護学科1年鹿取美紀さんと平野恵さんと教学課平川愛恵さん

鹿取さんは1回生で滋賀県出身。看護士を目指して勉強中。
平野さんも1回生。和歌山出身。二人ともバトミントン部。
二人とも自治会の活動をしており、兵庫県、特に佐用町への募金活動をしている。学園祭で義援金ブースを作り、来場者に呼びかけた。結果は2万1365円。

学校としては、学生からこういう声が出た時は、学校は全面的に応援していく。
これまでも様々な災害があったが、今回のように、学生から声が出て学園祭で、というような形は神戸常磐大学としては初めてなので学校側も喜んでいる。
自発的な学生がいるのは嬉しいこと。

学生の二人は佐用町へは行ったことはないが、行ってみたい。
義援金はまだ届けてないが、届けた後「次は何ができるか」と、進めていきたい。鹿取さんとしては義援金を継続(学園祭での)していきたい。それに加えて、神戸常磐大学と他の兵庫県内の他大学と連携を取って、学生が主体となって動けるボランティアができるような組織というか団体を作っていきたい。
平野さんは先の計画はないが、今回いい経験ができたので、この気持ちを大事にしていきたい。



神戸常磐大学にはボランティアセンターというのがある。常磐大学の他にも、常磐高校、常磐幼稚園の保護者の方、地域の人などいろんな人が入って活動している。普段、町のイベント(バザーや募金活動など)があったらそこに参加して、その収益を佐用町に届けたり、1.17のイベントの際は炊き出しを行ったり、ということも計画している。
ボランティアセンターとしては佐用町にも行き、活動している。関係ができるし、学校としても得るものがあると思っている。

22年度の1年生からのプログラムとして、文部科学省の危機対応実践力養成プログラムが始まる。文科省に申請し、選定されたもので「災害の際に対応できる学生を育てよう」というプログラムを計画している。
常磐大学には看護士のコースと臨床検査技師という検査を専門とする資格を持った学生を育てるコース、短大部としては幼稚園、保育士の先生。歯科衛生士。そうした資格養成の学科が4つある。
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2009年12月04日

12月災害時避難所となる学校施設、その有用性。

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2009年12月の番組、お招きしたのは、現在神戸市立長田中学校校長の中溝茂雄先生。
95年当時は大規模避難所になった神戸市立鷹取中学校に勤務。避難所となった中学校でのお話をしていただきました。



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震災当時は鷹取中学校に赴任していた。鷹取在籍時は11年目。当時は教務主任という肩書きで、学校全体の行事を統括したりしていた。
避難者の数は、3日目の時点で約2500人。おそらく、2日目では3000人くらいだったと思う(神戸市内でも最大規模)。3日目に電気が通った。最初に「組織化&人数掌握をしよう」ということになった。マイクで「いまから班編制をします。明日からは食事や物資を部屋毎に比例配分させていただきます」。その時の班の数が50くらい。後日、校外からもたくさんの人が物資を取りにきた。避難所というよりも地域の救援センターだった。

教師、生徒、学校に避難してきている高校生、他の中学校の生徒たちが仕事を分担した。最初の仕事はトイレ掃除。1日目、2日目はトイレの片付けばかり。池やプールから水を運んだりした。3日目くらいから仮設トイレが何十と届き出した(校庭に設置)。大便の処理のためにグラウンドに穴を掘ったり、最初の1週間くらいはそういう仕事が多かった。また、一番のやんちゃ坊主が小学校の避難所で夏ぐらいまでボランティアを続けたり、不登校の子どもが避難所の中でずっと手伝っていたりもした。

震災の前年に、鷹取中学校ではボランティア委員会というのを作って、須磨海岸で空き缶を拾って、それを吊るして壁画を作って環境保全を訴えたり、そういうことをやっていた。そういう体験が良かったのかもしれない。

困ったこととしてはあまりにも数が多かったこと。物資を配るにしても、まとめ役になってくれる人が現れず、結局は教師たちが関わり続けるしかなかったが、そこで信頼関係ができ、皆で難局を乗り越えられた。

授業再開は2月1日。水族園の食堂で再開した。3月の中旬に卒業式。避難している人に、体育館から教室に移ったり、他の学校からの協力を経て無事に卒業式をできた。また、避難している人たちが募金をしてくれて、そのお金でテレホンカードを作って配った。感動の卒業式で、1か月、2か月やってきた甲斐があった。この頃になってやっと落ち着いてきた。授業では教えられないことを教えられた。子どもたちの人生が変わった。私の人生も変わった。あの経験が子どもたちの生き方、人との関わり方などを変えた。普段からやってきたことは何なのかという部分、「チャンスを子どもたち与えてあげる、ということが大事。兵庫県全体でやっている「トライやるウィーク」など、鷹取中学校は震災前から職業訓練をやっていたが、そのようなことは大事。


「神戸に灯りを」には中溝さんもボランティアで参加している。主にイベント終了後の掃除、後片付けをやっている。地元の中学生がロウソクを作ったり、歌を歌ったり、太鼓をたたいたり、最近は高校生も増えたきた。

あれから15年。今の中学校3年生が地震の時に生まれた子どもたち。そうした子どもたちに地震の時の話しを聞かせてやりたいということで、当時の鷹取中学校の生徒たちを先生として呼んで、授業をする。防災学習の授業。彼らはもう30歳になる。彼らは戦友みたいなもの。一声かければ全国から集まる。
また、鷹取中学には15年後に開けようというタイムカプセルが埋まっている。それが次の1.17前後に開ける予定。避難所の同窓会も予定している。地元で生活している人たちはもちろん、ボランティアさんが楽しみにしている。全国から集まったボランティアさんたち。中には、個人的なつながりがあったり、ボランティア同士で結婚したり。そういう人たちが帰ってくる。苦しい中のつながり、絆は強い。また、ここまでの15年、防災教育の一貫としていろんな行事を経験しながら、ネットワークができている。

普段の心構えとして。防災のためのグッズや訓練が広がったが、一番大事なのは地域の人と人との繋がり。繋がりさえあれば、どんなことでも乗り越えられる気がする。地震でなくとも、水害やインフルエンザでも、あの経験があるから、我々は慌てない。そして、我々は職業柄、子どもたちのためには地域の人たちとの繋がりをもっともっと大事にして、学校だけでは教えられないことをいろんな場面で学んでいってくれたら、きっと子どもたちは、地域を担う立派な大人になってくれるんじゃないかと思う。そのためにはそういうチャンスをたくさん与えて上げたい。新興住宅地ではそういうことが難しくなってくるかもしれないが、神戸だと、1.17などのイベントなどを通して、繋がり(そういう仕掛け)を作っていかないといけない。
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2009年11月08日

11月神戸長田FMわぃわぃでの兵庫高校同窓会からの広がり

兵庫県立兵庫高校同窓会での出会いか始まった、第2の青春〜ボランティア活動〜
「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員会委員長和田幹司さん
FMわぃわぃミキサーボランティアスタッフ門田成延さん
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長田を中心にボランティア活動をされているお二人。二人は兵庫高校の出身。FMわぃわぃの番組を担当している。「サタデーエクスプレス」などの他、兵庫高校の人たちの番組にも参加している。
(二人とも)水害のあった佐用町のボランティアにも行っている。
門田さんは、リネンのタオルを軽トラックに載せて運んだほか、建具やドア、土間の修理など。門田さんのと「FMわぃわぃ」との関わりは2007年から。それまでは会社に務めていた。和田さんに誘われて参加したが、そうした兵庫高校の同窓生は現在、15人くらいいる。

和田さんの佐用町での役割は写真撮影する記録係。神戸常磐ボランティアセンターから現地へマイクロバスが出ており、たまたま空席ができて参加した。元々、カメラ関係の会社に務めていたこともあり、記録係となった。ボランティアの活動(どんな道具が揃っているか、水は用意されているとか、弁当を持って行く必要がある、ボランティアの作業がどんなだったか、など)、佐用や平岡の町がどんなであるか、そういった写真を撮影し、ホームページに載せていった。

和田さんの自宅は震災時、全壊(家が傾いた)だったが、家具は使えるものもあった。しかし今回のような水害では、家具が残って入るが使えなくなる場合が多い。ありとあらゆる隙間にドロが詰まっているので、大量の雑巾が必要。今後、寒くなって来るともっと大変。
現地では続けてボランティアをやっている人もいる。遠方からも、例えば名古屋から来て10日間くらいボランティア活動をする人もいた。

門田さんは元々会社人間。ボランティアだと、人間関係も変わる。利害関係もないのでいい。和田さんも現在の生活を気楽に感じている。

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間もなく、1.17(震災イベント)。和田さんはその実行委員長。始まったのは1999年。間もなく12回目。準備は大変だが、40代くらい前後の人たちがよくやってくれていて、上手く仕事の分担が出来ている。なかには、若い高校生くらいの人や中学校の校長先生など、さまざまな人がいる。
和田さん自身のボランティア活動のきっかけは阪神大震災。当時は自宅が全壊。
2か月くらいは自分のことで精一杯だったが、新聞をみるとたくさんボランティアが全国から集まっている。自分も何かしなければいけないと思って95年3月13日「長田を考える会」に参加し、様々な活動をするようになって(写真を撮ったり)、広がっていった。
門田さんのボランティア活動は1.17からで、それまではボランティア活動の経験はなかった。和田さんからの誘いがきっかけ。
ラジオ(FMわぃわぃ)での仕事の役割としては和田さんは「喋り」。門田さんはミキサーなどの「機械」。

間もなく震災から15年。災害時など、思い出すこともあるが普段は忘れてしまう。和田さんが保育園や学校などで話す時に常に訴えているのは「町の中で顔を覚えておいてもらいなさい」ということ。「良い関係を地域内で持つ」ためには顔を知る、挨拶する、といったこと。子どもたちには「誰が住んでいるか、どんな年寄りがいるのか、知っておいてください」と言っている。また、「お年寄りを助けてあげてくださいね」とも伝える。とにかく、普段の付き合いが重要だと思う。門田さんも同様に、近所付き合い、関係が大事だと考える。
高齢者に言いたいのは、特に男性に言いたいのは「外に出て欲しい」。男性の場合、会社人間だと、会社を辞めた後、近所付き合いができない場合が多い。人と話しをする時に照れたりする。
門田さんはリタイア後、町の掃除に参加したりして、コミュニケーションを取るようになった。奥さんには「元気になった」と言われた。

佐用町など、田舎に行くと特に地域の団結を感じる。阪神大震災時も、淡路島では地域のつながりが非常に強かったので「おばあちゃんがどこで寝ているか」もわかったらしい。そういうことが大事なのだろう。
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10月神戸での震災から広がる佐用土砂災害への支援〜チーム神戸〜

すたあと長田代表金田真須美さん
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パート1
阪神淡路大震災〜すたあと長田〜FMわぃわぃ「サタデーエクスプレス」

パート2
兵庫県佐用町での台風9号による土砂災害〜チーム神戸〜
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