2009年09月08日

9月 阪神淡路大震災あの時の宿題、現在の活動に生かすこと、伝えること!

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「生活工房Do!」主宰の土井けいこさん。


 震災時は大橋のマンション7階に住んでいたが、地震の鉄則である逃げ口の確保をしようと玄関のドアを開けたら火の手が見えた。そこからが脱出劇だった。普段から階段を使うようにしていたので、エレベーターが止まっている中で普通に階段を使って逃げられた。海外協力隊として開発国での生活経験もあり、普段からいざという時のことを想定はしていた。日常の延長上というより、日常のすぐ隣に災害があるので、普段からいろんな心積もりをしておくことが必要。
地震当日、何もしなかった自分、当時は在宅家事援助などをしていたプロだったのに、自分のことしか考えられなかった自分に後ろめたさがある。
 「生活工房Do!」では、毎日を気持ちよく暮らしていくための方法を講座を通して伝えている。最近は、不用品をためない暮らし方というテーマで講座を開いた。自分の今の暮らしに必要なものはわかりやすく配置をして、そうでないものはいつでも手放して人の役にたてるようにしておく。人とのつながりは大事で、自分で使わないものはどこかで活かすという意味でもつながれる。


「震災体験をして、一瞬ですべてを失くしてしまう体験をして、気に入らないものを使っている方がもったいないと感じた。今はコップ1個でも使って気持ちいいものを厳選して、好きなものに触れていることで日常に充実して生きている幸せを感じる」という土井さんを取材された記事がある。ものは所詮「もの」でしかないが、もったいないという言葉でいっぱい抱え込んで手放せないでいたり、うっとうしくなってどうしていいかわからない人がいる。地震の時、これからは毎日をちゃんと充実させて過ごしていきたいと思った。ものはあくまで手段だが、金額がどうこうではなく、日々の暮らしを豊かにしてくれるものを持ちたいと思った。
今の仕事も、震災体験が出発点。ものはあくまで手段だが、それを取り囲む家族との関係や周りとの関係を含めての暮らしの提案をしている。
震災の時に宝塚に移ったことは後ろめたさになっているが、時間の経過と共にやらなかった宿題となって、そこを忘れないで人に伝えていく、自分もきちんと考えて生活していくという軸になっている気がする。
災害への心構えへのアドバイスとしては、人にわかりやすい暮らし、つまり誰にでも手を貸してもらいやすい環境を作っておくこと、心を閉ざさないことが必要。日々の暮らしでは、何気なく置いた上のものが落ちてきて怪我をしたとならないように、ちょっと考えて生活をして欲しい。、また、日々の生活で必要なものは変わっていくので、日々見直して風通しのいい暮らしをすることが必要。
西宮のコミュニティFMでも「暮らしのヒント」という番組を12年間していて、衣食住から家族のコミュニケーション、家族のことなど毎日を気持ちよく暮らしていくためのヒ
ントを提供している。

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2009年08月04日

8月地域防災コミュニティ〜ひよどり台〜

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ひよどり台防災福祉コミュニティ委員長林喜久治さん、同アドバイザー森谷繁徳さん、ジュニアチームひよどり台中学2年生岡村明佳さん、3年生福井悠祐くん、聞き手は西條遊児さん。
8月地域防災コミュニティ〜ひよどり台〜


彼らはひよどり台団地で防災活動を行っている。中学生の岡村さんや福井さんは震災の体験がないが、先輩から学びながら防災ジュニアチームで活動している。月に1回活動を行い、地震体験談を聞いたり、煙体験などを行う。

毎年1月17日付近には震災の日を記念して防災訓練を行っている。消火栓から放水の訓練やけが人の救助訓練。煙が家から出ているのを想定しての訓練では、「消防車も街中を走り、リアルだった」と岡村さんは話す。
学校と地域とPTAと行政で協力して立ち上げた防災ジュニアチーム。最初はお年寄りが5人くらいしか来られなかった訓練にも、ジュニアチームが呼びかけると100人ほどに増えた。「若い力が必要だと実感した」と林さん。

アドバイザーの森谷さんは消化や救助訓練をはじめ、子どもたちに自分で判断できる力を教える。耐震の体験をさせるために東屋をつくった。学校や家では体験できないようなことを学べる。「自分たちで何を作り出せるか、それが分かれば震災のときにも持ちこたえられる」それがアドバイザーの仕事だと森谷さんは語る。今は物が豊富で余っている時代だが、震災が起きたら自分たちが作り出していかなければならない。

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夏祭りでは岡村さんや福井くんは受付などを手伝う。防災活動だけでなく、地域のイベントにも参加する。ジュニアチームは160人。学校やPTAとの協力も大切だ。ジュニアチームに入ってみて「予想以上に楽しかった」と語る岡村さん。福井くんは知らない地域の人とも挨拶を欠かさない。

防災意識を持って生活することが大事だ。OBには消防署で働く人もいる。
ひよどり台地区は高齢化のモデル地区に指定されている。少子化の中でも次世代につないでいくのは防災ジュニアチームだ。大人の知恵をこどもに預けて、子どもの柔軟な考えで新たなアイデアを生み出して欲しいと願う。
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2009年07月09日

7月 被災地学生交流事業IN神戸

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神戸大学大学院 工学研究科 建築学専攻 近藤民代さん
<トーク1>
 被災地学生交流事業を始めようと思ったのは、神戸で学んでいる留学生に神戸の震災の教訓を学んで欲しいと思ったのがきっかけ。神戸大学1回生の時に震災を経験し、当日は滋賀の実家にいたが、地震を経験したというのが災害に関わり始めたきっかけだ。あれだけ住宅が潰れて人が亡くなったというのは、建築を勉強している者にとっては大きな衝撃だった。
 HAT神戸にある人と未来防災センターで4年間研究をした。1つは、都道府県や市町村が、地震や水害後いかに避難者を効果的に支援できるかという行政の応急対応、もう1つは住宅の復興で、アメリカニューオーリンズのハリケーン後に現地にも入って研究を続けている。アメリカの復興は、神戸に比べすごく遅い。神戸では災害復興公営住宅を短期間に作って被災者が入れるようにしたが、アメリカでは公的に住宅を作って入らせてもらえるという政策はない。元々の公営住宅のストック自体も少ない。今回は堤防が決壊して住宅がなくなったということで、個人が自力で住宅再建をする場合は補償という形で1500万まで支給されるという制度はあるが、いろいろ問題はあってなかなか進んでいない。神戸では、仮設住宅、復興住宅で郊外に住むことになり、住み慣れた町、ご近所さんと離れてしまったという問題はあったが、短期間で住む場所を行政が提供したというのは、町の復興にすごく大きい役割を果たしたと思う。でも、住んでいた場所に住み続けられるというのは被災者が望むことなので、次に災害があったときには考えないといけないこと。そういう意味では、阪神大震災以降の日本の被災地では、このマイナスの教訓を生かしているかもしれない。
<トーク2>
兵庫県下の留学生に震災のことを学んでもらおうという被災地学生交流事業(仮称)を立ち上げた。きっかけは、阪神淡路大震災以降、新潟や能登でも地震があり、世界でもミャンマーのサイクロン、アメリカのハリケーンカトリーナ、インド洋の津波、四川地震など、災害はなくならない。被災地から来ている留学生も多いが、神戸で学んでいる時に、十数年前に神戸で大震災があったことを知らない留学生も多く、それがもったいないと思ったこと。既に、神戸を中心に、神戸の教訓を世界中に語り継いでいく世界の語り継ぎネットワーク「テルネット」という活動があり、他の教授等とも一緒にこの事業を始めようとしている。神戸大学の留学生に限らず、神戸の近くで勉強している留学生を巻き込んで、彼らが母国に戻った時に生かしてもらえればと思っている。震災の教訓を語り継いでいきたいという意欲的な市民がいるのが神戸の財産なので、神戸の町を歩いて、復興に携わった人から直接聞いて学んで欲しい。留学生の中にも家族が災害にあった人もいるだろうので、神戸市民が留学生から話を聞いて世界から学ぶということも念頭においている。お互いが学び、それを神戸から発信していき、減災に役立てていきたい。海外からの視察者も多いが、震災から14年たった今も、市民が震災復興に取り組み、熱心に語り継ごうとしていることに驚いている。
これから、見学や市民との交流を進めていき、15年目を迎える来年1月17日には留学生と市民お互いが学んだことを世界に発信できるシンポジウムをできればと考えている。まだ一年計画でまずは動いてみようというところだが、今後も広げていければと思っていて、いずれは留学生が中心になって、そこに神戸の学生を巻き込んでいければいいと思う。
災害の備えへのアドバイスとしては、災害の原因にもよるが、生活の基盤である住まいで被災する確率は高く、耐震化や家具の固定など住まいを災害から守れるように備えておくことが大切である。

2009年06月10日

6月 震災14年に震災資料室設立  

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6月トーク1 野田北まちづくり協議会事務局長 河合節二さん
 地域住民として当時の話、そして今に続くその思い

<トーク1>
生まれも育ちもこの地域で、ここで地震にも遭い、昔から知ってる人の遺体を出したことは忘れもしない。この人の分まで生きて、地域をよくしたいと思ったことが、地元のことをやり始めたきっかけだ。
震災当時、自分は33歳だったが、この地域では20代〜70代など各年代が集まってきたということは恵まれていた。
震災より2年前に、まちづくり協議会ができていたので、神戸市の他の地域より立ち直りが早く、区画整理では市内で一番だったが、住民と行政との合意形成は難しかった。当時、区画整理などで、神戸市内は行政に反対という雰囲気だったが、野田北部は地域も行政もお互い被災していて、これからよくなっていかないといけないので、行政とも仲良くやっていったらいいと進めた。専門家のコンサルタントも入っているが、まちづくり協議会という地域の住民組織が間に入ってやったということが大きかった。
当初の協議会の目的は、3世代が同居できるまちにしたいということだったが、現在3世代4世代が住んでいる。地震で被災した分をスピーディーに回復でき、若い世代が入ってきてくれた。問題であった老朽家屋とか高齢者、住環境の問題等が地震で解決し、それ自体は不幸なことだが、災い転じて福となすで、災害に強いまちづくりという方向に進めたのかもしれない。
当時のカソリック教会の神父が門戸を広げ、教会がボランティアの中心になり、地域も一緒になって、外国の方も混じって、それが今にも繋がっている。

6月トーク2 野田北まちづくり協議会事務局長 河合節二さん
 たかとりコミュニティセンター1階に震災資料室設置

<トーク2>
たかとりコミュニティセンターにスペースを借りて、震災資料室を作れた。市外から研修や修学旅行で来られて、映像を見てもらうこともあるし、地域の案内をすることもある。
野田北ふるさとネットは、便宜上組織としているが、本来的にはネットワークの場の提供だと思っている。地域内外の各団体組織をゆるやかに繋ぎ、月1回の定例会議で情報交換をするという場の提供。そこで、各団体のトップクラスに、一般の人、行政も入って情報交換をすれば、バッティングすることがなく、お互い協力しようとなる。地域でやることも気がつくかどうか、気がついてもやるかどうか、そこで気がついたらやろうよとしている。そういう人が、他の地域より多いかもしれない。
JR鷹取駅の駐輪場は神戸市が設置しているものだが、たかとりコミュニティセンターが指定管理者になり、地域が大部分を管理するという協力関係ができている。そこでは多くの高齢者が元気に働いて、高齢者が動く場があるというのはいいことだが、70代以上がほとんどで、60代がいないという問題もある。
大きな災害があったときのアドバイスとしては、まず自分が生き延びること、生き延びたら人を助けること。でもその前提として知っている関係でないとならず、空気みたいな存在にならないこと、地域でも職場でも自分の仲間がいるという状況にしておくこと、そうすると助けてもらえる確率は高い。

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2009年05月05日

5月地域の消防団団員として、地域の商業者として

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5月のトーク1 野田北の第8分団分団 分団長為岡務さん 班長花房浩次さん 消防団について

長田消防団は1〜8まで(東の方からはじまり西の方へ8つの分団が)存在する。
分団員の定員は18名だが、現在は16名で活動中。

為岡務さん「いま、このラジオの放送中にも無線をもっています。普段から、何時どこで連絡があっても駆けつけられる態勢をとっています。兵庫県全体からの消防連絡が入るため、夜中寝ている時に鳴ることもしばしば。私自身平成9年に団員となったので、阪神・淡路大震災の起こった当時はまだ団員ではありませんでした。40歳代のころ、野田の自治会長をしていたのですが、震災をきっかけに防火管理ということで、消防団へ入ることになりました。」

花房さん「私は、昭和63年に入団しました。なので、キャリアとしては為岡さんよりも長いということになりますね。高校を卒業してから9代目になる実家の畳屋を継いでいたのですが、ある日消防団に欠員が出た、というのを聞いて入団する事になりました。なので、震災当時はすでに入団。自宅は久保町にあったのですが、敷地が防災地区に入っていたため再建していました。なので、周りの家よりも比較的被害は少なかったですね。震災時は、実家の畳屋へ仕事の依頼もあったのですが、それを断って救出活動にあたっていました。はじめは消火活動よりも、生き埋めになってしまった人たちの救出が主でした。」

震災時は、救出活動ばかりしていたので、ほとんど家にいない状況でした。
今年4月に20歳の新人が入ったのですが、昔と今では仕事の内容も変わった点が多々あります。
何よりも、震災後の取り組みとして、各分団に新たな仕組みが導入されています。
各分団に小型ポンプが設置され、消防車が到着するまでの間でも“初期消火”活動ができるようになりました。また、大規模火災の出動訓練など、阪神・淡路大震災から学んだことを生かす取り組みが増えたと思いますね。

現在、二人とも救急インストラクターの免許をもっており、心肺蘇生を教えるほかにも 震災後増えたコミュニティセンターの自治会への指導をはじめ、地域住民への指導・講習も行っている。

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5月のトーク2 地域の瓦屋として為岡さん、地域の畳屋として花房さん

お二人とも、震災当時は消防団や自治会長として救出活動の傍らで、瓦屋や畳屋としての仕事依頼もあり、大変忙しい日々を送っていた様子。

為岡さん「地元で、瓦屋として屋根の工事を主に、外装工事も行っています。震災後、家の倒壊の原因として瓦が重たいから と言われたのは辛かったですね。当時は、200件以上の屋根の修理にあたりました。傷んだ瓦は修理し、完全に壊れていたものは新しい屋根材を貼り付けるなどの作業をしました。」
花房さん「私のところの畳屋は、電気や水道が回復してから仕事を再開しだしたのですが、やはり関東から業者が多く来たこともあり、震災後に建った家はほとんどが関東間になっているのが現状です。また、昔よりも畳の間のある家が減ってきています。畳屋の中には、畳だけではやっていられないので
ふすまや内装関係の仕事を取り扱っているところもありますが、私たちは畳をおろそかにしたくないという思いもあり、畳だけを取り扱っています。畳職は、最近ではほとんど年配の人ばかりで、跡取りがいなかったらお店をたたんでしまうところが多いので だいぶ減ってきていますね。」

瓦においても畳においても、様式が関東風へと移り変わってきています。
震災後、建築様式がガラッと変わったので、職人である立場のものは、その時代に応じた建築様式に合わせた技術をつけなければならなくなってきています。

――放送中、無線に連絡が入る――

無線に連絡が入れば、すぐに駆けつけるようにしています。
消防団としての役割は、救出がスムーズに行われるように、消防署へ地元の情報(例えば被災元の家族人数など)を伝えることです。また、現場での他の住民の安否や、野次馬が危険な行動にでないようにする役目も担っています。現在、女性の消防団員はいないのですが募集しております。女性が加わることによって、地域住民と情報を共有でき、より良いネットワーク作りができるのではないかと思いますね。
私たち消防団員から伝えたいことは、もし今後地震が起こったときは、第1に避難をして欲しいということ。火を止めるのも大事だが、激しい揺れの中で火の近くにいることは危険です。まず逃げる、そして火を止めるのは揺れがおさまってからにしましょう。そして、家族など身近な人たちの安否の確認。となり近所のつきあいを大切にし、いざという時に助け合える仲を日ごろからつくっておく事が重要です。
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2009年04月06日

4月震災のとき見えた定住外国人の状況、実は。。。

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4月トーク1 多文化共生センター代表理事 田村太郎さん

現在、多言語で情報提供をするために全国4ヶ所に活動の拠点をおいている田村太郎さん。

震災時は伊丹に居住。もともとスペイン語を話すことができたので、大阪でフィリピン人向けのビデオレンタル屋をしていました。地震によって多くの外国人が困っていることを知り、多言語で情報を届けようと思ったのがきっかけで、多文化の共生できるセンターを大阪にたちあげました。震災の現場ではなく大阪に事務所を置くことによって、適度な距離を置いたところから被災の全体を把握することができました。

はじめは7人でたちあげ、外国人からの相談受け付けをはじめたのですが、現状は思っていたより深刻でした。
なかでも多かった相談は、「お金・仕事・家」について。震災で外国人が困っていることは目に見て分かることだけではなく、言語の違いによって伝えられない悩み・不安は生活に重要な部分ばかりでした。
避難所に行けば、救済における申請書はそろえてありますが、被害が多ければ多いほど、外国人にとってはその“申請”という、読んで分かる資料の理解が難しい…言葉の壁によって悩んでいる彼らを、さまざまな言語によって助ける活動を行いました。

活動を通じて気づいたことは、日常生活で外国人に対する情報が極端に少なかったということです。外国人にとっては、なにも震災だからといって困っていたわけではなく、普段から得られる情報の少なさにずっと困っていたということでした。

4月トーク2 多文化共生センター代表理事 田村太郎さん

日本で生活している外国人の問題として、あまり知られていないのが「教育」について。日本では学校に行くはずの年齢なのに、就学していない外国人は、全体の2割ほどもいるのが現状です。
家庭の事情や、学校からの通達の問題など、様々な背景があります。

そして最近力をいれていることは、企業向けのセミナー。もっと外国人を雇用してください、ということを企業に呼びかける活動をしています。日本の型にはまった内容ばかりではなく、職場が多文化になっていくことは、企業にとっても良いことであるのではないでしょうか。最近は、介護の現場に多くの外国人が雇用されていますが、あらゆる職場に多文化共存のマネジメントがなされていくことが重要だと考えています。

今後は、外国人と日本人の違いだけではなく、男女の違い・障害のあるないの違い・年齢の違い など、様々な“違い”に着目した地域づくりを目指して活動をしていきたいと思っています。また、今後再び災害が起こった時に、スムーズに避難生活が送れるような訓練も行っています。「一泊宿泊訓練」という、実際に避難所生活を1泊体験することで、現状を頭で理解しただけでは気づかなかった問題点、また、どのような張り紙がより役に立つかなどの改善点や、災害の状況でよく使われる単語は何かなど、身を持って感じることができます。

普段目に見えないところに隠れていた、いろんな問題の“ふた”が開いてしまったのが震災であったと思います。今後の教訓としては、その問題にもう一度“ふた”をしてしまうのではなく、見つけたものに対してきちんと取り組み、より良い地域づくりをしていくことが私達につきつけられた課題だと思っています。
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2009年03月03日

3月 神戸の特色を生かしたまちづくり!

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3月のトーク1 神戸市市長 矢田立郎さん
震災当時の話をお聞きしました。
周りを囲んでいるのは甲南女子大学の先生と引率の先生、そして甲南女子大学と短期留学の交流を行っている韓国ソウル市にある淑明女子大学の生徒と引率の先生。

震災当時は、神戸の港湾の責任者として働いていました。その後、民政など様々なことに携わってきました。FMわぃわぃを訪れ、1階にある震災の資料室を見ると、震災直後のことがよみがえってきました。現在の町の様子との比較は、実際には震災直後の町を知るものでないと分からないことも多いかもしれません。
先日、兵庫県との姉妹都市である西オーストラリアの首相が訪れたのですが、この町の復興の様子を素晴らしいと言っておられました。私にとってこの15年は、長いようでもありますが、つい最近のことのようにも思えます。

震災直後は、海からの供給物資を、新神戸駅にあつめてそれを配っていく手伝いをしていました。人の命がどんどん失われていく中で、これ以上犠牲者を出してはいけないというい想い同時に、亡くなった人の周りの立場におかれている方々を、できる限りフォローしようとおもっていました。震災直後は、一致団結しよう!という気持ちは強かったのですが、月日が経つにつれて徐々にその町全体の意識が薄れつつあったのも事実です。皆の意識を高く保つためにも、市の予算に応じて、市民の暮らしへの安定にどう立ち向かっていくかが1番大きな項目でした。

被災者の生活において、仮設住宅のときは、お互いが支えあって助け合うということは比較的個々が近くにいるので自然とできたのですが、災害工事住宅に入ると、一戸一戸孤立した状態になってしまうので、そこでどうやってコミュニティ(地域)を形成していくか、というのが大きな課題でした。
顔見知りのない環境の中で、コミュニティを形成するのにとても時間がかかり、区の職員などが相談にのったりもしたのですが、そのうちに自分達でできることをやろう、と声をあげる人が徐々に出てきました。

市長になって8年近くたちますが、まだまだ新しいまちづくり・復興にかけています。ポイントとして、コミュニティが、いかに力をあわせて、自助・共助の仕組みをつくりあげていくかが重要であると考えています。

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3月のトーク2 神戸市市長 矢田立郎さん
震災直後からのまちづくりとして、今後再び大きな災害が起こったときのために、耐震診断をより行うようにしています。震災後におよそ77%の建物の耐震化がはかられましたが、残り2割ほどの建物は耐震化がはかられていない状況です。県・市、または震災復興支援によって、耐震診断を無料で行うような取り組みを進めています。

また、それに加えて個人が自分の命を守るためにやっておかなければならないこともたくさんあります。耐震については金銭面での問題も生まれてくるので、できるかぎりのことは各自でやっていかなければなりません。
神戸の特性のひとつに、国際性があります。現在、神戸市には4万4千人ほどの外国人が居住しています。1番多いのは韓国人で、約2万5千人、続いて中国人が約1万2千人、そして長田に多く住んでいるベトナム人、そしてアメリカ、ブラジル、インド、フィリピンの方々は1千人ちかくいます。外国人の居住している区別でいうと、長田区は、1番である中央区につづいて外国の方が多い地域です。この多文化共生をいかに生かしていくには、やはりコミュニケーションがキーポイントでしょう。
6月には、北野町に、移民の海外居住と文化の交流をはかるセンターをオープンする予定です。そこでは、多文化の言語をはじめ、文化の理解を深める取り組みを行おうと思っています。

今後は、多言語の案内マップの配布や、駅や空港でのわかりやすい案内など、外国人がある程度個人で行動できるまちを目指していきたいですね。
教訓としては、「命の大切さ」そして「コミュニティの大切さ」です。あらゆる面においてお互いが助け合い支えあって、ユニバーサルなまちをつくっていくことを原点とし、人との付き合いを大切にしていくことで、個人が孤立することのない社会を目指していこうと考えています。

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2009年02月02日

2月 震災前・直後・そしてそこから

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2月のトーク1 阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 黒田裕子さん

高齢者や障害者のネットワークの他、震災を期に様々な活動をしています。

震災までは宝塚在住で、阪神間を中心に看護師をしていました。
震災の日すぐに出勤すると市内の病院がいっぱいになっていたため、宝塚総合体育館に救護センターを立ち上げました。宝塚市では死者が87名でしたが、そのうちの47名をここでお受けすることになりました。建物の下敷きになるなど大変な状況でしたので、泥を拭くことも言葉を添えることもできない状態で、今でも心が痛みます。
また、避難所に入れなかった1200名も受入ました。

1ヶ月後にライフラインが復旧し、避難所は引き上げることになりました。しかし、神戸はまだ悲惨な状況でした。新聞などでは連日、孤独死のことが報道されていたことから、「今しかできないことをしよう」と思い立ち、退職願を出して長田区へやってきました。
長田区では、避難所に入れずに公園で過ごしている人が少なくなく、その多くは高齢者でした。そこで、この方々を受け入れるため、旧知だった林山クリニックの梁先生と高齢者ケアセンターの中辻さんとの3人で老人ホームを借り、長田支援ネットワークの活動を開始しました。

4月になって仮設住宅の建設が本格化し始めた頃、梁さんが神戸市内の状況を調査されたのですが、最も大きい規模だったのが西区西神にある第7仮設住宅でした。しかし、ボランティアは入っておらず行政の対応も不十分でした。そこで出会ったのが盲人の夫妻と手術の失敗から下半身が麻痺したままの方でした。
1060世帯1800名が住むこの仮説住宅では、高齢化率が47.7%、65歳以上の独居者が450名という状態でした。活動の拠点をここに移すにあたって阪神高齢者・障害者支援ネットワークに改称し、6月15日には40畳のテントを設置し、24時間体制での運営を開始しました。西区内7000戸には仮設住宅がありましたが、周辺を含めた3000戸を担当することになりました。
当初のスタッフは約10名。医療関係者は梁先生と私の2人でした。その後、看護師、管理栄養士、作業療法士、理学療法士などが加わり、休日を利用して医師にも協力してもらいました。こうして、医療と福祉を連動させる取り組みを行っていったのです。

当初は3名だった認知症の方が環境の変化によって増えていきました。またアルコール依存症も増えました。他の仮設住宅でも同様のことが起こっていると思い、神戸市に調査を依頼したところかなりの数で増えていることが分かりました。
こうしてその対策を進めていくことになりました。時間が経つにつれて増えていった空き家を利用して、認知症、アルコール依存症、虚弱者などが住める場を提供していったのです。平成18年度から制度化されたグループハウス、グループホーム、宅老所などの仕組みは、神戸から発信したものです。

一方、仮設住宅には仕事を失った人が集まっていました。そこで敷地内の広場に作業所をつくることを提案しましたが、市から許可が出なかったため、集会所で内職をすることにしました。たとえ僅かな額でも稼げることで、生きがいを感じることができるこの取り組みは、高塚台でのグループハウスづくりにつながっています。

どのような状況下にあっても、人権尊重される住まい方があるはずです。どのようにすれば安心して快適に暮らせるか。現場に現実があって、問題解決もそこにあります。


2月のトーク2 阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 黒田裕子さん

「場づくりが人づくりになる」と地下鉄伊川谷駅構内ではじめた作業所は、袋、キーホルダー、マットなど自分たちでつくったものを売るという形で、コミュニティビジネスとして継続しています。
加齢とともにひとりで生きていくのが嫌になっていくという方が来られます。そのような人たちは閉じこもりになりがちですが、ひとりにしないようにしています。
今では全国で取り組まれるようになったお茶会、包括支援センター、高齢者広場なども、いずれも仮設住宅からはじまったものです。高齢者が今を生ききるための仕組みをつくっていくことで、心と体を一体とした健康管理ができるようになってきました。

こうした経験をもとに、他国で起こる震災の場に行くようになりました。これまで、台湾、トルコ、中国四川などに行きました。
震災といっても災害は様々な形となって現れますので、まずは現場に入らないと判断できないことは多いです。しかし、国境を越えても命をもつ人間という存在は同じですから、最後のひとりまで見捨てないということは変わりません。
私は看護師ですが、医療職は道具のひとつだと思っています。瓦礫を片付けたり、話をしたり、必要なことをします。行った先でご飯を食べて行って欲しいと言われることがありますが、それをいただくことで元気が出たという反応がかえってきます。これもボランティアのひとつだと思っています。

どこに国に行っても大切なことは、ボランティアは相手の気持ちの中に土足で入らないということです。「人権を守ってその人と向き合う」「共に学ばせてもらう」「寄り添う」という気持ちがないとコミュニケーションがとれません。相手の気持ちをくみ取らずに、こちらの思いだけで相手をこちらに向かせるということは絶対にしてはいけないことです。
近年、「心のケア」の必要性について言われますが、それありきではないと思っています。色んなことを聞くことで自分の思いを語らせるといった研究がありますが、私は感心しません。そばにいるだけでもケアになることもあるのです。大切なのは、傍らで相手の気持ちに寄り添えるかということです。

当センターには、学生や企業研修など、若い人がたくさん来られます。その人たちに言っていることは、日常生活で出会う色んな人たちと言葉を交わす中で、相手がどんな反応をしたのか、自分を振りかえるきっかけとなっているかといったことを心がけることです。その積み重ねによって、どのような状況下においても相手と向き合い、寄り添うことができるようになります。
対象は人間です。当センターにぜひ来てください。いい学びを得ることができると思います。


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2009年01月05日

2009年1月 神戸市役所震災直後

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神戸市保健福祉局 局長 桜井誠一さん

震災当時は神戸市広報課長、翌1996年からは生活再建本部次長を務めていました。

震災当日は、笹山市長他3名のついで4番目に駆けつけました。職員一同が出勤すべきところでしたがそれができませんでしたので、出勤したメンバーで災害対策本部をつくり、広報以外の分野にも関わることになりました。

西区に住んでいたのですが、防災担当の関連課長だったので早く出勤しなければならないと思い自転車に乗って駅まで行きました。しかし電車が動いていなかったので、車で行くことにしました。西神戸有料道路にのったのですが、その時間はまだ混んでいませんでした。ちょうどトンネルに入る手前のところで長田方面で煙があがっているのが見えました。火事が起こっていることが分かりましたが、その時は消防が対応しているだろうと思っていました。それよりも車が少ないことが気になりました。もしかするとトンネルが崩れているかもしれないと思いつつ、隣を通った1台の車についていきました。
大変だったのは新神戸に出てからです。今にも倒れてきそうなビルの間を徐行運転で通り抜けました。
ようやくたどり着きましたが市役所はつぶれ、中に入ると天井は落ち、部屋の中も机がひっくり返って入れませんでした。

市民の皆さんへのお知らせは通常は広報誌で行いますが、それには時間がかかります。皆さんに安心してもらうためには、現状と救援活動が行われていることを伝える必要がありますが、当時は携帯電話もパソコンも普及しておらずその手段がありませんでした。それでテレビやラジオにお願いして伝えて欲しい内容を発信しました。
広報誌を立ち上げるにあったっては、市内で動いていた印刷屋が1軒あったので、まずはそこで2000部を刷りました。その後は大阪に拠点を移しました。夕方から夜に原稿をつくり夜中に印刷します。一方でバイク隊を結成して、できた印刷物をベニヤ板に貼って市内の学校や避難所などに掲示していきました。これが毎日できる仕組みづくりをしたことで、情報伝達の手段が出来ました。

マスコミ対応をしていて感じたことは、地元とそれ以外に温度差があったことです。外から取材に来た人の中には、実態を見ずに質問しているところがありました。例えば、消防署には広報車があるのに、どうしてそれで回って住民に知らせないのかと聞かれました。道路事情をみれば不可能と分かるはずです。
ある一定期間が過ぎて交換した名刺を数えたら500枚ありました。当時、取材にきていた人と会う機会があって、当時の映像は全く見ていないという話をしました。
いったん家に戻ってもまた出勤する交通手段がありませんでしたので、廊下で寝ていました。10日間ぐらいはまともに寝ていないと思います。

翌年に異動になった生活再建本部は、市内で3万戸できていた仮設住宅の管理が主な仕事でした。その中で怖かったのは火事が起こることです。仮説住宅は耐火構造ではありませんので、1軒出火すると全体に広がります。それで消火器を2軒に1個おいたり、住民の間でも夜回りをされていました。時期がたって居住者が減ってくると危険度が高まるので、余計に気づかいました。
火事の関連で夜中に4回電話がかかってきたことがあったのですが、今でも夜に電話が鳴るとその当時のことを思い出します。

もうひとつ、生活再建の支援金を組み立てていく仕事がありました。当時は今のような内容ではなく、高齢者向の給付金、中高年向の給付金という形で制度を設計していきました。特に国には、個人補償との兼ねあいから理解が得られにくかったので苦労しました。
当時は市民の皆さんも追い詰められていましたので、色んなことをおっしゃる方もありましたが、何度か通ううちに親しくなっていきました。
当時の国の制度では、区画整理や再開発に対する補助が最も出安いということがありましたので、そのお金がないと復興しないという思いがありました。しかし、制度を適応するにあたり、段階的に行っていく仕組みづくりを進めている途中で情報が表に出てかえって混乱したということもありました。

当時を振り返って、よかったという方もあれば、口惜しい思いをされた方もあるでしょう。その評価は難しいと思います。
いずれにしても、14年たって記憶も風化しつつある今、やってきたことをきちんと伝えることが私の役割になってきたと思っています。


「しあわせ運べるように」の歌を聴くと今でも涙がにじんできます。
震災の翌年(1996年)1月の市広報誌の1面はこの歌の歌詞でした。防災学習副読本「幸せ運ぼう」が出来て、その中に載っていたものです。市民の気持ちはこれだと思いました。

震災以後、市では減災の考え方を取り入れるようになりました。いかに災害を少なくするか工夫をするというものです。
防災は行政だけが行うというイメージがありますが、減災は市民ひとりひとりから行政まで、誰もが考えて進めることができます。日ごろからやれることをひとつひとつ積み重ねることが大切です。

避難所での子どもたちについて思い出に残っていることがあります。
トイレの水が流れませんでしたが、大人たちの間では誰が掃除をするのかという話になります。一方、子どもたちは避難所新聞をつくって、トイレの掃除はこうしましょうという記事を書いていました。
子どもが間に入ると大人は秩序をもって取り組むようになります。子どもの力はすごいと思いました。
しかし、日ごろからやっていないことはできません。子どもも日常的に家の手伝いをするなどしていれば、いざという時に自分の役割を果たすことができます。

神戸には「お裾分けの文化」があって面白いまちだと思います。この文化を生かし、顔と顔が見える関係を残していくことが大切です。

行政は大きな情報しか伝えることができません。しかし、市民が求める情報はもっと身近なことです。例えば、どの店が開いている、どのお風呂屋が使えるなどといった内容です。地域の情報を知っている放送局から発信すると隅々まで伝えることができます。その役割は大きいです。
FMわぃわぃについても、放送局が立ち上がるときに関係者とお会いして、応援しますと言った記憶があります。身近なところにあるFM局を地域の財産と考えてもらいたいです。

災害時における弱者の避難計画を整備することは大切なことです。しかし、その計画を機能させるには地域の力が必要です。市の施策の中にも地域の力の向上をバックアップするものがあるので、一緒に進めていければと思います。
posted by FMYY at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

12月のパート2 日常の挨拶から始まる強い地域

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12月のトーク2 野田北部自治会理事 高木邦子さん

長田区長楽町在住。FMわぃわぃ番組審議委員で、地域では民生委員も務めています。

震災の時は周辺の家はほとんどが全壊で、死者も多く出ました。そんな中、私の家だけが壊れずに残りました。震災の8年前、自宅を新築にした際に重量鉄骨を使ったからです。夫が建築関係の仕事をしており、建物の耐震の重要性を知っていたこともあり、地下13メートルまで掘って基礎をつくりました。費用もかかりましたし、車が通ると揺れるので、当初は不満をもっていましたが、その建て方がよかったことを後から実感しました。
しかし、震災の直後は私の家だけが残って辛かったです。家が残ったのだから他の人の世話を言われたりして、肩身の狭い思いをしました。

震災があった日は、飲まず食わずで暗くなるまで近所の家々に声をかけて走り回りました。声がしない家の無事を確認したり、助けを求める声に応じたりしました。
夕方になって、冷蔵庫の中にあるものに火を通して食べていると、その臭いにつられて近所の人がやってきました。芋があるから焼かせて欲しいとやってくる人もいました。夜になって車のライトをつけていると、知らない人たちも集まってきてみんなで一緒に過ごしました。

たかとり教会に救援基地ができてからは、全国から集まってくださったボランティアのための食事づくりをしました。指の形が変わるのではないかと思うほど野菜を切りました。今では想像もつかないような力がわいていました。
食事のメニューは、その日に送られてくる材料で決めました。野菜が多かったので、天ぷらをよくしましたね。
地域には色んな宗教施設がありますが、たかとり教会が最もオープンだったと思います。誰もが一致団結していました。

困ったことは、洗濯機が使えなかったことです。ライフラインの工事は居住者が多いところが優先されましたので、ある程度の人が戻ってこないと復旧できないと言われました。私の家だけが残っている状態が続いたことから、特に電気の復旧は遅くなりました。

震災の経験から言えることは、日ごろから訓練をしておくことが大事だということです。聞くだけでなく、実際に体を動かすことでいざという時に対応できます。
また、ご近所とのお付き合いを大切にすることです。まず安否を確認するのは、より身近な人ですから。

posted by FMYY at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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