2008年12月23日

12月のパート1 粘り強く伝える必要がある!

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12月のトーク1 神戸東急イン料飲支配人 中山義昭さん
ホテル神戸東急インに勤務。神戸甲南ライオンズクラブ会員でもあります。

震災当時は兵庫区大開通にあるワンルームマンションで一人暮らしをしており、直後はパニック状態でした。
勤務地は三宮にある神戸東急インでしたが、部下との連絡がついたのは2時間ぐらい経ってからです。ホテルの地下にある公衆電話から連絡がありました。
ホテルは耐震壁などを使った頑丈な建物だったので大丈夫でしたが、備品類など内部の破損が大きかったため、約半年間、休館しました。
近年、建物の耐震性について話題にのぼることがありますが、硬ければいいというものはありません。柔らかい部分があって、そこが歪んで破損してくれた方が建物全体としては壊れにくいということがあります。建築法も改正されてきており、免震に着目する例が見られます。
全国各地に転勤しますが、地方のホテルにはベランダがありません。神戸にはベランダがあって、そこに避難できたことが構造的にはよかったと思います。

当日に宿泊されていたお客様や親族の方からは、後日、感謝状や手紙をいただきました。夜勤の従業員それぞれが行動し、お客様を誘導したからです。結果、宿泊のお客様は、ほとんど怪我なく救出することができました。定期的に行っている消防訓練や防災訓練が役に立ちました。

技術的な視点も大切ですが、ソフト面での取り組みを忘れてはいけません。いくら訓練をしても意識をもって取り組まなければ無駄になります。マニュアルは必要ですが、その使い方は日ごろからトレーニングしておく必要があります。そのため、年に1〜2回は消防訓練を行うようにしています。
若い従業員が多いので、震災の経験を言葉で伝えていくことは大切だと思っています。部下には、日ごろから意識をもっておくようにとは常に言っています。しつこいと思われるぐらいがちょうどいいのかもしれません。
また、地方のホテルでは防災意識がどうしても低くなります。日常の業務にトレーニングを組み込み、チームワークをよくしておくことが大切だと思っています。
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2008年11月05日

11月のパート2 地域の中で顔の見える関係作り

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11月のトーク2 カトリックたかとり教会 鈴木迪子さん

FMわぃわぃでは「アフタヌーンねね」を担当。カトリックたかとり教会の近隣に在住し、震災直後は救援基地のボランティアとして活躍しました。

震災の時、火災にはあいませんでしたが家は全壊でした。当日は鷹取中学校に避難しましたが、人がいっぱいだったで教会にいくことにしました。すぐに救援活動がはじまったので、退職したばかりの夫と活動することになりました。
全国から何千人という人々がかけつけてくださって、とても活気がありました。ボランティア元年と呼ばれましたが、それを肌で感じました。みんな家族のようでした。あの時があるから今があるのだと思っています。

復興が進む過程で、まちづくりについて色んなことを考えるようになりました。互いに知らないと助けようという思いも頭に浮かびません。外から来てくださる方に助けてもらうことも多くありますが、震災の直後や状況が落ち着いた後では、まちの中で助け合うことが必要です。
「西須磨だんらん」というNPOができましたが、そこでは色んなことを勉強しました。介護保険を活用して、高齢者の見守りや訪問など互いに助け合えるコミュニティづくりを行っています。高齢者の食事会を行っていますが、公園内の施設で実施していることから子どもが安心して遊べる場になっています。高齢者も子どもの声を聞くことで元気をもらえます。顔が見える関係づくりが出来ているのです。

震災後、教会内の建てられた集会所「ペーパードームたかとり」が台湾に移設されるにあたり、現地に行ってきました。その時、台湾での震災の後にできた長青村という施設に行ったのですが、そこに住む高齢者自身が自給自足の生活をされていました。自分でやれることは自分たちでやっていこうという姿勢にとても刺激を受けました。それで、だんらんでの食事会も参加される高齢者と一緒に準備をしようと声をかけるようにしています。

まちづくりには、たかとり教会はもちろんですが、NPO/NGO、政治、企業、学者、住民の関係がうまく潤滑することが大切です。NPO/NGOが中心になってその関係をつくっていくことが必要なのだと思っています。
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2008年11月04日

11月のパート1 日常からの家作り

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11月のトーク1 椛蜥ヒ板金工作所代表取締役 大塚利一さん

東灘区西岡本在住。建築関係(立体駐車場など)の板金工作所を経営しています。

震災当時は民生委員を務めていたことから、直後は女性を中心に高齢者の家を周りました。閉じ込められた方がいらっしゃって、家をつぶして助け出し、貴重品を運び出したりもしました。
地域内を周っていると、煙草をくわえて歩いている人がいてとても腹が立ちました。ガス漏れがあちこちで起こっていましたし、実際に火災が起こった地域もあります。火の始末についてはシビアに考えて欲しいと思いました。

家は修繕したばかりでしたので大丈夫でした。自分の住んでいる家がどのような状態にあるのか、気をつけておくことはとても大切なことです。お金がかかってもやっておくべきことがありますので、皆さんも日ごろから心がけておいてください。
ただ、家の中はグチャグチャになっていました。仕事が忙しく、震災当日も朝3時に起きて仕事をしていました。後で寝室に行くとテレビが落ちてきていて驚きました。
学校も被害を受けていてどこに避難すればいいのか分かりませんでした。停電したので、テレビはもちろんラジオも聞くことができませんでした。それで、周囲にも聞こえるように、車のラジオを大音量でかけて情報収集につとめました。

仕事面では特に苦労しました。震災後、復旧関係以外の大型トラックは地域内に入ることができなかったので、時間外に作業をしました。輸送の手配が思うようにいかず、仕事をすればするほど赤字になるといった時期もありました。

住んでいるところで顔見知りの関係があるというのは大切なことです。民生委員で訪問をしても、玄関もかけてくれない家がありますが、いざという時どうすることもできません。普段からのお付き合いというのはとても大切だと思います。
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10月のパート2 言葉の壁、しかし人を思う心はそれも超える!

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10月のトーク2 FMわぃわぃDJ・ラテンコミュニティ代表
大城ロクサナさん 
水曜日の夜、この地域に住んでいるラテン人の方が日本で
もっとより住みやすくなるようにFMわぃわぃで
スペイン語で生活情報を伝えています。
また自分の文化や習慣を日本語で伝える番組でもあります。

ペルーの日系三世で御爺さんが沖縄の方です
日本に来日したのは1991年と今からもう17年前になります。
震災当時は日本語をほとんど話すことも出来なかった、
家族も日本語がほとんど分からないままでパニックでした。
須磨区在住だったために周りから聞こえる「ツナミ」
という言葉が聞き取れたが「ツナミが来ない」という情報
かどうかは、分からなかった。

人の流れに乗って何とか広場まで辿り着くことが出来ました。
ただ長い時間が流れたのに空が明るくならない事が不思議でした・・・が
火事の煙が原因であることが暫くしてわかりました。
その時はとても不安でした。
広場で旦那さんがおばちゃんを寒さからセーターを渡して助けたら、
今度はおばちゃんが中学校に連れて行ってくれました。
ペルーでは被災した時に何処かに集まるというシステムがありませんでした。
後にそのおばちゃんがセーターを返しに来てくれました。
おばちゃんとはその三度しか会ってないのが心残りではあります。

震災当時は日本語が話せなくてなにより「言葉の壁」で苦労しました。これから日本で生活する上で日本語を勉強したほうが良いと思いました。また震災時に伝えたい事も伝える事が出来ると思いました。

現在は様々な情報を全国各地で発信しています
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10月のパート1 虫の知らせ!の体験談


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10月のトーク1 鞄血商会代表取締役 志水利達さん

神戸甲南ライオンズクラブのメンバーで、
約20年近く活動されています。
昔、お父様がガラスパテというガラスの淵を止める物を
造ってらっしゃいました。
今はそれをヒントにシーリング工事のお仕事をされています。
シーリングというのはガラスを固定させるゴム丈の物で、
いわゆるクッション材を造ってガラスの建物の建築等に
携わっています。
神戸の復興ではとても忙しく、とても神経の使う仕事でした。
被災状況としては会社も自宅も幸い無事でした。

震災を通じての思い出としては、
震災の二日前に電気の使用量も計算された新築の家なのに
ヒューズがとんでしまい、奥様に懐中電灯を買いにいってもいらいました。
その懐中電灯がすぐに震災で役に立った経験があります。
他にも、お祖母さんが何かあったときに
現金をすぐに持ち出せる様にしていて、
その教訓を受け継ぎ寝室に現金を用意していたお陰で
合計40台のバイクを買い、すぐに動くことが出来ました。
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2008年09月10日

9月の放送パート2 当時の反省も含め、次世代に語り継ぐことこそ重要!


9月のトーク2 近畿タクシー株式会社 森崎清登さん
わぃわぃクラブの理事長で、近畿タクシー代表取締役社長の森崎清登さんに震災の教訓をお聞きしました。
震災を通じてこれからの日本の課題点を語っていただきました。
震災当時タクシーは今と同じ52台あったものの、立ち往生してしまいました。
2ヶ月は機能ができなかったそうです。すこしでも小回りをきかせて運転をして、利用していただきたかったという思いが残っておられるようです。
最近は防災のためのタクシー無線の連携がとられています。
マンションの倒壊、ガレージのコンクリートのひびわれ、長田の火災を見ていると、自分の町ではないような不思議な気持ちになられたそうです。
最近は町のいいところをお伝えしたいという思いから、ユニークなアイディアタクシー(お花見タクシー・海水浴タクシー・スィーツタクシー)というアイディアを盛り込んだタクシーも作っているそうです。
13年経って、当時のマイナス面を反省して、市民全体でユニバーサルデザインのまちづくりが進められる必要があります。
震災を経験した者の共有感を震災の経験していない子どもたちに伝えることの重要性についても語っていただきました。
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9月の放送パート1 輸送の情報網を確保!


9月のトーク 1 株式会社共栄運送 森川武夫さん
神戸甲南ライオンズクラブのメンバーをしておられる、株式会社共栄運送代表取締役トラック輸送の会社の森川武夫さんにお話をお聞きしました。
震災当時は神戸港に船が入らず、大阪の港を利用していたそうです。兵庫県トラック協会の連結強化により救援物資(水、毛布、医療)が行われました。
これからの災害に備えて、コンビ二配送のノウハウを利用して、輸送の情報網を確保し、細い道を通るトラックと大型トラックが連携する必要があることの重要性を教えてくださいました。
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2008年08月02日

8月の放送パート2 避難所で思わず隠した韓国名

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8月のトーク2 韓国語講師 李玉順(リ・オクスン)さん

FMわぃわぃの放送を担当していた。活動は立ち上げ時から10年ほど続いたが、今はお休み中。

イさんは在日3世で、20年ほど前に神戸に来た。震災当時は新長田に住んでいた(火災被害が特にひどかった地域)。地震直後、家を出ると崩壊した建物が全て南方向に倒れていた。他人の家の屋根を通って大通りへ出た。負傷はあったものの、6人家族全員無事に脱出できた。近くの小学校に人が集まり始めて避難した。

避難所では、差別をされた。しかし避難所だからされたのではなく、潜在的にあった差別意識が顕著になった感じだった。自分が弱っているときだからこそ本能的な感情が出たのではないかと思う。当時、自分は日本社会経済が成長したので日本人の意識も成長した、と思っていたが、関東大震災時の、政府の仕業だといわれている噂(すべての矛盾を在日朝鮮人のせいにしたもの)を思い出し、子どもたちのことが心配で漠然とした不安がよぎった。そのため、避難者登録を、通称名を用いて行った。
高校卒業時までは通称名を使い、いずれ名実共に日本人になることを目指していた、つまり日本に帰化しようとしていた。日本人になることで全ての嫌なことから解放される、楽になると思っていた。当時在日外国人が、日本で同じ権利を持って生活する選択肢は帰化しかない状況だった。知識を得て、考えた末の選択肢の一つとしてではなかった。しかし高校卒業後民族大学に行ったとき、朝鮮名を使っている人々と自然なままに触れ合い、共に国の歴史、文化、言葉などを学んだ。彼らと溶け込んでいったときの安心感がやみつきになり、どんどん知識を取り込んでいった。そして朝鮮人の自分が自分の名前で生きていくことに何の問題があるのか?と思えるようになった。それからは本名を使って生きていた。息子は幼稚園から民族学校に通わせた。

しかし震災時には子どもが関東大震災のときのような被害にあうのではないのかと心配し、思わず通称名で登録をした。自分の本名しか知らない知人が自分を訪ねてきたときに「イ・オクソン」という人間が避難所に存在せず「亡くなったのか」という誤解が生じてしまった。

震災後はFMわぃわぃなどを通して、在日外国人を支える活動を始めた。避難所で通称名を使ってしまった自分が恥ずかしくなり、今までの自分は本物ではない、という思いが残った。それから自分を鍛えるような(他の人と共に育っていくような)状況に身をおき、ボランティアをすることにした。今も、外国人(定住であれ一時滞在であれ)の持つ問題は根本的には変わっていない。そのような日本社会を変えるには、お互いを知ることが必要である。隣に色んな外国人が住んでいることを知るべきなのである。国際化国際化と騒がれているが、地に足の着いた純粋な国際化がされていないことが、震災の時に明らかになった。普段から国際化を認識していて、外国人と共生しているつもりでも、非常時にはどうなるかわからない。震災時は「日本人が大変なときに、外国人にかまっていられるか」という意識が個人レベルでも行政レベルでも伝わってきた。しかし今の日本社会は日本人だけでは成り立たない。好む・好まないという問題ではなく、共生しなければならない、のだ。線を引くという問題は社会で起こっているのであり、それは外国人問題ではなく日本の問題なのである。例えばフィリピン人などを看護師として招へいする協定も、その後起こりうる問題なども考慮していかなければ成り立たない(覚悟や知識の必要性)。外国人問題は、女性問題、障害者問題、高齢者問題と同じ日本の問題なのである。

金栄さんのコメント
賃貸住宅を扱っている以上、色んな国の人たちが来ても可能な限り努力をして入居差別など起こらないよう仕事をしているつもりだが、イさんの話を聞いて、今までの自分を振り返って耳が痛い。日本人皆、イさんの話を心に留めておいてほしい。
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8月の放送パート1 陥没の道路を疾走した

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西條さん:夏は暑い.大震災の後は特に暑かった。
震災で高い建物が崩壊して、影がないので暑かった。
震災から13年半経ち、宮城岩手の方や中国の四川でも地震があった。
震災のことを忘れる人もいるかもしれないが、忘れないためにも
この番組で伝えたい。

8月のトーク1 カナエ不動産 金栄道夫さん

神戸甲南ライオンズの会員で、主に献血に関する活動をしているが、震災時は会員の安否確認を第一に行った。普段神戸甲南ライオンズは献血活動に力を注いでいて、今年は設立45周年なので力を入れて活動したい。

仕事は不動産管理(仲介、賃貸・売買関係)。主に家主と借りたい人との仲介、調整をしている。

震災当時は家屋が崩壊して住むところがない、物件が無い状態だった。避難所を出てからも行くところが無い、という人がたくさんいた。特に文化アパートはほとんど崩壊した。震災後のトラブルとして多かったのは、法律のずれ(リフォームにより以前より家賃が高くなった、など)。そんな中「より安い物件が欲しい」などの要望も多くあったが、物件そのものが無いため難しい問題だった。市民が家を求めて県外に引っ越していった。しかし一時的引越しのつもりが帰ってこられなくなることもある。家主さんも自宅が崩壊し、自分の持っているマンションは一部崩壊で無事でも、満室という状況においては家主なのに住む家が無い、という問題もあった。そういう家主たちから、物件を紹介してくれという要望もあった。

自宅、会社近隣(灘区水道筋の商店街)は多く崩壊した。地震当日はたまたま父が早起きをして顔を洗っているときで、ガラス戸で腕を負傷した。近くの稗田小学校は自衛隊が来ていて、物々しかったのを覚えている。

あれだけの震災が起これば、どれだけの準備をしていてもかなわないのではないかと思った。しかしインフラ整備などは、日常から徐々に整えるべきである。震災により、非常時の不動産の仕事(仲介や物件探し)については経験済みとは言えるが、当時崩壊しなかった建物の補強などはまだ進んでいない。耐震化はあまり進まずのままなので、さらなる強化が必要である。
 
中国四川の地震を見て再確認したが、家の補強は大切である。特に公共の建物(小学校など)は避難所となるべき場所であるにも関わらず、真っ先に崩壊しているのを見て悲惨だった。

今後は経験を生かして取り組んでいく必要がある。


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2008年07月29日

7月の放送パート2 避難所で我慢する子どもたち

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7月のトーク2 田村緑さん 元長田民生主任児童委員会長
平成6年1月から子供のことに関して民生員活動を始めた。
震災時には、実は大人たちが、子供達の笑顔で癒されていた。

自宅は基礎がずれてしまい全壊。しかし当時は屋根の瓦が一枚も落ちてないということで、中がぐちゃぐちゃでも外側から見て判断されて「一部損壊」という判定をされた。後で申し立てることも出来たが、ご主人が「うちは屋根がある」「ずれてるとはいえ何とか出来る」と仰って助成金は頂かなかった。

震災の前日に当時高3の娘さんは、小さな地震を体感、一人でおばあさんの49日の蝋燭のお守をしていた時で、ぐらっと来た時にお線香を折って灰に入れてガスの元栓締めて待機した。これは関東出身の田村さんの常日頃言っていたことから、できたこと。
16日の夜仏間で娘さんと枕を並べて寝た・・・そしてその翌朝震災が起こった。その時、田村さんは咄嗟に娘さんに覆いかぶさりそのおかげで田村さん自身が助かった。というのは、そのまま寝ていたら重たい箪笥の下敷きだった。娘さんを庇うつもりの行動が、田村さん自身を助けた。

毎年1月に地元の小学校で防災学習のお話をしている。そして震災関連の紙芝居と体験談などを開催。例えば紙芝居で「日曜日に親子でデパートに行きました、その時グラット来ました。どうしたらいいですか?」など親子で考える内容を開催。実際に震災に遭遇した時にどうするかを考える企画にしている。

娘さんとの体験談を日曜参観でお話しすると親御さんから。大きな共感を得られた。子どもたちには、学校では何処に避難したらいいか?等を先生と考え、そして家ではもし地震が起きた時にどうしたらいいか等を家族で考える。

現在は長田っ子サポート隊として乳幼児の親御さんや子育て中の親御さんや小学校に通っては1年生〜3年生までのお子さんに、本や絵本や紙芝居の読み聞かせをしている。

子どもから大人が元気をもらっている。長田は市民によるユニバーサルデザイン発祥の地でユニバーサルデザイン研究会の一員でもある。


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