2008年07月29日

7月の放送パート1 屋上の防火水槽が吹っ飛んだ!

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7月のトーク1 加藤義雄さん 神戸甲南ライオンズクラブ会長

阪神淡路大震災からはや13年。
日本国内は勿論、各国で地震・災害が起きている
加藤さんのお仕事は震災時と同じ貸しビル業。

貸しビル業者の観点から地震時の対応等を、話していただいた。

東京時に訓練や話を聞いていたが、実際に震災に合うと対処は中々出来ない。日常からの防災訓練は大切ということを実感した。
震災時には他のビルに閉じ込められた人達を助けた。

ライオンズクラブの活動だけでなく、ユネスコでの活動も行っている。自然を大切にする、お子様の教育支援を行っている。
その理念は「3つの幸せ」3つの幸せとは「して頂ける幸せ」「自分で立って歩いたりする幸せ」「自分がしてあげられる幸せ」

図書関係は行政があまり資金を提供してくれないので、本を贈るということを積極的に行っている。図鑑等も必要だが、娯楽に関する本も必要と考え提供している。本を読む習慣は、大切だ。
災害などで図書館などが被害にあい、そこへの支援が行政では後回しになると考えるので図書を配るというところを民間で行っている。

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2008年06月29日

6月の放送パート2 女性という目線、アジアの目線。

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6月のトーク2 もりきかずみさん アジア女性自立プロジェクト代表
20年に渡る外国での生活を踏まえ、日本の生活の改善に取り組むべく震災前から女性、外国人という目線での活動を始める。
震災時様々な外国人女性からのSOSが入った。「物資が届かない」「家に取り残されている」などなど、、中山手教会を中心に始まった「外国人救援ネット」での活動を開始。その後「カトリックたかとり教会」の中にアジア女性自立プロジェクトの事務所=拠点ができ、アジアの女性たちの立ち寄り場所、相談場所、交流する場所ができたことが新たな展開となった。国と国の文化の違い、法律的な違い、言葉の違いなど様々なことが、災害時一気に噴出す。
新たな法律の改正など人々を守る制度の改革はあるものの、それが中々情報として人々の手に渡らない。
人々が情報を手に入れ、自分達が活用されて始めて、法律の不備が明らかになる。いずれの場合も弱者が犠牲になる。そうならないために常日頃からの人々のネットワークの強化と連携が必要である。
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2008年06月09日

6月の放送パート1 災害時の法律家の役割

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6月のトーク1 森川憲二さん 大倉山法律事務所所長
関東大震災の教訓からできた罹災法はあった。。。しかし全く改正もなく残っていた法律。時間の流れの中で、社会的状況に完全に合致せず、現状に対応できない法律であった。実は法律の守るべき、市民一般、一番弱いもの、弱者の側にたったものという観点からの立法が必要ということを、神戸の震災以後市民の声をあげるという運動の中から、それぞれの専門家が連携して始まり、新たな法律、規制などが13年の年月をかけて設立された。
これからは、様々な専門家達が複合的にネットワークをはかり、「減災」をキーワードに神戸にその拠点ができている。
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2008年05月06日

5月の放送パート2 震災で店は全壊、でもそこから山田監督、寅さんと出あった!

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5月のトーク2 石倉悦子さん くららべ〜かり〜オーナー
もとのパン屋のあった山吉市場は、半分は全壊!後の半分は半壊!
JR新長田周辺の都市計画のため現在、山吉市場はなくなってしまった。自分達の商店再建のため、地域の人々の中から生まれた言葉「寅さんを長田に呼ぼう」突拍子のないアイディアに思えたが、なぜか心が動いて山田洋二監督にお手紙を書いた。その内容は、「震災で全壊したまち、そして自分達のお店、でも以前からお付き合いのあった障害者ネットワークから届くさまざまな連絡や支援の物資で、笑い声が上がることもある。そんなパン屋のあることを知っていてください」
まさかと思った山田洋二監督からのお葉書「覚えておきます」
そして寅さん最後の映画に「パン屋のくららべ〜かり〜」が登場。
撮影風景を見ていた自分達もエキストラとして映画出演も果たした。
その後も山田洋二監督とのつながりは途切れず、次々と制作される映画にもスタッフ一同御招待いただいているばかりか、感想をきかれることもしばしば。
著名な方だけでなく、震災以後の人と人とのつながりは益々、濃く、太く、強くなっている。
誰でも、そんな人でも、力を出せる場面、状況、その時があるということを実感している。
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5月の放送パート1 95年1月の極寒の川で洗濯していた女性の姿が忘れられない!

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5月のトーク1 岡部隆一さん 株式会社松原リネンサプライ代表
30年前から続いているホテルなどのリネンを納入している。顧客である神戸のホテルが20軒近く倒壊。ご自分の工場、会社は被害は少なかったが、顧客の被害は甚大であった。
岡部さん御夫婦は、毎朝御自宅の明石港のほとりのマンションから明石城まで散歩するのが日課。1995年1月17日の朝も4時半くらいから非常階段をおり明石城まで散歩、ちょうどお堀あたりで震災にあった。ゴーという地鳴りと共に巨大なお堀の水が激しく揺れる様は、まるで夢を見ているようであった。あわててマンションに戻ると1時間ほど前降りた非常階段はものの見事に、崩れ落ちていた。
マンション自体は損傷はそうひどくなかったが、自宅隣の方のドアは開けることができず、岡部さんの家のバルコニー側から脱出することが出来た。
この時の大きな教訓。
それはこのマンションは、頑丈な高級マンションであったが、リゾートマンションであり、日常的な近所付き合いがなく、自治会は組織されてはいたが、機能はされなかった。やはり一番大切なのは、顔と顔の見える関係、それを日常から構築しておくこと。いくらシステムをつくっても、そこに血の通ったお付き合いがなければ、何の役にも立たない。そのことから現在では声を掛け合う機会の増える地域でのボランティア活動を積極的に行っている。
また震災後の光景、工場の近くの川で赤ちゃんをおぶったお母さんが、ムツキを洗っている姿を見た。リネン会社ということもあり、布の提供、また工場内の水を使っていただくよう声をかけた。
岡部さんが気づくまで、会社の社員がそのこと気がつかなかったことに大きなショックを受けられた。また自分の娘がそういう立場であったら、、、ということに思いをはせ、気づく!思い至る!ということの大切さを伝えたいと強く思われた。

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2008年04月06日

4月の放送パート2 災害時の神戸市広報として撮影した映像を礎に世界へ発信。

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4月のトーク2 松崎太亮さん神戸市教育委員会職員
震災時の職場は、神戸市広報課。自分のできることは、その現状を記録することだった。
時間の流れの中で、震災の記憶が風化している。しかしこの経験やそこから生まれた知恵は、次世代に伝えるべきと考え、当時の震災映像や写真資料を活用した防災教育教材づくり(防災教育DVDや教員研修資料CD−ROMを作成)を行った。…映像のもつ力は大きい。
その製作過程の中で、単に作品を作るということではなく、実際に地域の人々と共にさまざまなプロジェクトを実施。その一つが、中学生と共に学ぶ地域防災学習防災福祉ジュニアチーム。
共に地域防災学習のカリキュラムをコンテンツ化しWEBにアップ。これをEラーニング講座「神戸と学ぶ防災市民塾」という富山インターネット市民塾のコンテンツとして掲載し、08.1神戸でスクーリングを開催した。
現在神戸で行われ、そして他地域にもそれを伝承した「学校と地域が連携する防災教育プログラム」を海外にも普及することも実施。
神戸で行われている学校・園での防災教育や、地域防災訓練を、海外の被災地に伝えに行っている。(アルメニア共和国、アルジェリア共和国等)それぞれの国・地域の独自の文化に合わせた、現地の人々 が主導となった防災教育カリキュラムづくりのお手伝いを行っている。これが被災地神戸の行える海外支援であると強く感じている。
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2008年04月05日

4月の放送パート1 災害時大きな力日常の自治会活動!

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4月のトーク1 藤澤福男さん 西御影自治会会長・連合会長、日本赤十字理事、元神戸御影中町郵便局長
この地域は最激震地域であり、JRの高架橋げたがすべて倒壊。国道2号より北へ避難するように口コミで情報が飛んだ。避難所となったのは、御影高校。しかし避難所に人が入りきらないうちに、この地域の海岸地域のMCターミナルから液化プロパンガスの漏洩が発見され、爆発の危険性が消防庁から伝えられた。やっと避難所にたどり着いた人々にさらに山手幹線より北の北御影小学校へと移動するよう伝達された。その避難民は6万人ともいわれ、黙々と避難する人々の移動するザ〜ザ〜という音が今でも耳に焼き付いている。
その避難する人々は、すべてがすべて移動できたかというと、そうではない。避難所には行かず、自宅に残っていた人も多く、また最初の避難で疲れ切ってしまった高齢者も多かった。
そういう取り残された人々へのケアに自治会の会長として対応した。
避難所には救援物資や情報が来るが、自宅にいる人にはそれらのものは届かない。
誰がどこに住んでいるのか、どこに高齢者の人がいるのか、また移動困難な人がいるということを把握できるのは、常日頃の自治会活動。これがあったからこそ、取り残された人々に対するケアが出来た。日常的な顔の見える関係がいかに大切であるか、次世代の子ども達に是非伝えたい。実際的にこの顔の見える関係を創れるのが、地域での祭り。東灘地域では、ダンジリを開催することで、地域のコミュニケーション力のアップを実感している。
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2008年03月20日

3月の放送パート2 和田幹司さん震災から始まった新たな人生!

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3月のトーク2 和田幹司さん
震災前は一流写真メーカーの役職サラリーマンだった和田幹司さん。震災を契機に地域のボランティア活動を開始。それが和田さんの生活とそして「まち」に対する視線を変えた。まず最初に始めたのが、地域の人々が自分達で発行しはじめたミニコミ誌制作のお手伝い。被災地の人間の必要な情報を被災地の人間が発行するミニコミ誌。書くこと、そして写真を撮ることが大好きだった和田さんの得意分野だった。そこから始まった地域のネットワーク形成の和田さんの歩みは、様々な人々を映し出し、そして大きな活動へと拡大している。
その一つが、「すたあと長田のサタデーエクスプレス」FMわぃわぃでの放送。地域をつぶさに歩き、そこに住む人々の声を届ける「わだかんのテクテクぶらぶら」(通称テクぶら)、そして「1.17KOBEに灯りをinながた」の実行委員長を務めるなど身をもってまちの活性化、地域の力アップの「歩く人間メディア」として活躍している。
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3月の放送パート1 新聞販売、情報は必需だった!

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3月のトーク1 脇水均さん (有)ナサシステム神戸市北区で神戸新聞販売、和田幹司さんFMわぃわぃ「すたあと長田のサタデーエクスプレス」スタッフ&「1.17KOBEに灯りをinながた実行委員長」

3月トーク1脇水均さん脇水さんは、北区星和台にある神戸新聞の販売所。自宅周辺はそれほどの被害はなかったものの、神戸新聞の本社全壊!そして激震の走った地域の販売店への応援にすぐさま駆けつけた。仲間達の応援に駆けつけるかかたわら、緊急時なんとしても必要な情報の供給をしなくてはならなかった。幸い神戸新聞は、震災の前年、京都新聞と何らかの時の提携をすでになしていたため、さっそく京都新聞社で神戸新聞の印刷が開始され、脇水さんたち販売所のみなさんもその新聞を、被災地のみなさんに配ることが出来た。
本当に薄っぺらな新聞。しかし情報に飢えた人々にとっては、砂漠の水のように必要なものだった。
被災状況、そしてそこで行われている救援活動、今後のいろんな展開などなど、、、争うように人々は新聞を手にした。
情報量の多さを指摘される今、脇水さんは情報の重要さとともに、地域に生きる人々の心と心を結ぶコミュニティ紙の必要性も実感されている。鳥の視点での情報と虫の視線の情報。そのどちらも日常からのネットワークが必要であるのはいうまでもないことである。
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2008年02月23日

2月の放送パート2 神戸出身、でも震災時神戸にいなかった!

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川池知代さん
現在JICA兵庫国際防災研修センター業務調整員
神戸生まれの神戸育ち、親の実家は長田神社の北側。でも震災当時は、JICA兵庫の青年海外協力隊の一員として、西アフリカの象牙海岸共和国=コートジボワール共和国にいた。事務所からの連絡でCNNのニュースを見たときは、生きた心地がしなかった。
一時帰国で神戸に帰れたのは、95年の夏。長田のまちは、見渡す限り更地だらけの広大な平原。まるで夢を見ているようだった。半年たった被災地は、いろんな人々が「あの時は本当に地獄だった」とか「近所の人たちの救援のおかげで、助け出された」とやっと話し始めていた時期。幸運にも怪我もなかった親戚はもとより、生まれ育った地域の近所の人々の話を聞く中で「なんで自分はその苦労を共にしなかったのか」「神戸人なのに何も知らない」という「知らない」「経験」しなかったことに罪悪感を覚えた。
そんな時ひとりの友人の言葉が自分を救った。「あんなひどい経験!あんな残酷な景色を見なくてよかった!それでよかったのよ」という言葉。
経験しなかった自分だからこそ、神戸で生まれた様々な助け合いの心、そして新たに生まれた様々な取り組み、それを伝えてゆく人間となれる。そしてアフリカの発展途上国といわれる人々の便利ではない生活の中で培われているその生きる力、ノウハウも合わせて日本に伝え、相互の協力体制というところから現職へと繋がっていると感じている。
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